世の中は、争ってはいけないが、戦わなくてはならない。
支配しつつ、なりゆきにまかせなくてはならない。
全てを放棄しなければならないが、願い、求めなくてはならない。
無為であって有為であれ。

もう、どないせいっちゅうんじゃ!
しかし、これが人間だ。
誰かが、わざと、我々の脳や世界に、混乱するプログラムを組み込んだとしか思えない。
我々は、キリキリ舞する、面白い見世物か何かとして存在させられているのだろう。
だが、「そんなの冗談じゃない!」と言って、バックれる(逃げる)・・・具体的には死ぬことが・・・出来ない、あるいは、とても難しい。

対策は考えようがない。
なぜなら、全てが矛盾だらけだからだ。
可愛い猫を殺したり、愛しい少女に苦痛を与えたがるのは、「そんなことが出来ることを確かめたい」からだ。
だが、そんなことをする者というのは、逸脱、あるいは、狂気が始まっているのであり、そのエラーはどんどん拡大して、最も苦痛に満ちた見世物としての存在になる。
それは、EMG(エマージェンシー=緊急事態)なのか、それとも、やはり元々仕組まれたプログラムなのか、それは分からない。
だが、人間が考えるEMGなんて、やっぱり「普通のこと」なんだろう。

人間は役割を演じるしかない。
「俺は映画スターになりたい」と言っても、駅の便所掃除が役割なら、便所掃除をすれば良いのである。
どちらも全然、違いはない。
むしろ、「俺は便所掃除よりランクが上だ」と思う映画スターの方に、ちょっとキツい展開が用意されている。
嫌々サラリーマンをやるのもまた役割だ。
そこから抜け出そうと、大きな努力をしても、報われるかもしれないし、完全に失意に終わるかもしれない。
「こんなにがんばったのに・・・」と絶望する姿の方が面白いしね。

もし、逆転の秘法があったとしても、それも、ゲーム制作者が用意しただけの話だ。
いつ、秘法の仕様が変わるかもしれないし、無効になったり、逆効果になったりしかねない。
ルールを外れたような魔法使いがいたとしても、それもまたルールの範囲内だ。

「あの・・・そろそろ自分の役割に飽きたんですけどお」
「そうか、では死ね」
「ひえぇ!もうちょっとがんばりますう」
「よしやれ」
我々は、その程度の存在だ。
その自覚を持てば幸せになれる。

だが、おそらく、ゲーム制作者にも、その上位のゲーム制作者がいるのだ。
まあ、ゲーム制作者というのは、あくまで喩えではあるが。
念仏ってのは、その上位のゲーム制作者との同調である。









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