念仏がなぜ良いのかを、学校のクラスを例に説明する。
優秀な生徒になりたければ、優秀な生徒を見れば良い。
優秀な生徒に意識を向け、注意深く観察し、出来れば、親しくすれば良い。
すると、自分もその優秀な生徒に似てくるのである。
逆に、劣った生徒や悪い生徒達と親しくしていれば、自分がそれほど劣ったり、悪い訳でなくても、その劣悪な生徒達に似てくるだろう。
人間は、意識を向けた相手に似ていくのである。

子は親の鏡と言う。
その通りだ。
「ご両親は素晴らしいのに、子供は出来損ないだ」
と言うなら、それは違う。
普通に一緒にいる親子でそのように見えれば、その「出来損ない」の子の両親は、見てくれは立派でも、中身はやっぱり出来損ないなのだ。
子供は親を一番意識して育つので、絶対的に親に似るのである。

念仏とは、クラスで最も優れた生徒が足元にも及ばない優れた生徒を意識することだ。
優れた両親すら平伏(ひれふ)すような素晴らしい人物を意識することであるとも言える。
そうしていれば、自分が最も優れた生徒になり、親をはるかに超える。

念仏の対象である如来(仏)は、いかなる立派な人間とも比較にならない優れた存在である。
最高の人間が一本の松明とすれば、如来は太陽のようなものだ。
その如来の中でも最高の如来である阿弥陀如来はシリウスである。
「南無阿弥陀仏」と称えることは、その阿弥陀如来に意識を向けることだ。
すると、やはり、阿弥陀如来に似てくるのである。

如来がいかに優れた存在であるかは、経典に書かれてはいるが、そんなものを見なくても、無意識の中にすでに如来のイメージが組み込まれている。
阿弥陀如来は、キリスト教やイスラム教の神と違い、決して怒らず、罰しない。
どんな悪人も受け入れる。
いや、そもそも、何よりも悪人を哀れみ、気遣っている。
もちろん、善人も助けるが、果たして善人などいるのだろうか?
如来が助ける条件はただ1つ。
名を呼ぶことだけだ。
「阿弥陀仏」とは、無限の輝き、そして、永遠の命という意味だ。
その名を呼びやすいよう工夫されたものが念仏である。
念仏は宗教や信仰であると共に未来科学である。









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