イエス・キリストの教えは「神を愛せよ」だったのだと私は断言する。
旧約聖書では「神を崇めよ」だったのが、イエスは「愛せよ」に変えたのだ。
「崇める」ってのは、現代人には疲れるのだ。
人類最大の聖典『バガヴァッド・ギーター』の教えとは、至高神クリシュナの言葉「私を愛せよ」だ。
つまり、イエスの教えもクリシュなの教えも同じで、人間の最高の行為は、神を愛することである。

ただ、クリシュナとイエスは、そのやり方を示さなかったという、我々からすれば、大ボケをかましているように感じる。
「愛する」とはどういうことなのか?
それが分からないから、人間は苦労するのである。

「愛する」とはどういうことだろう?
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、そもそも、人間には愛することは出来ないと言った。
ただ、出来るのは、「憎しみを消す」ことだけなのだと。
イェイツは、オスカー・ワイルドやニーチェ同様、アンチ・キリストだったと思うが、彼らは、「愛し方」を教えなかったイエスに反感でも持ったのだろうか?

好きな人がいて、その人を愛するというのは、その人のことを想うことだ。

「あたしはシャオランのことをずっと考えているよ。シャオランはあたしのこと、考えることある?」
「考えてるよ。僕もずっとサクラ姫のこと」

CLAMP原作のアニメ『ツバサ・クロニクル』の第1話で、こんな感じの会話があったと思うが、これが愛するということなのだ。
でも、同じ人間を愛するのなら、これで良いが、愛する相手が神ともなると、どう想えば良いのか分からない。
『観無量寿経』という浄土仏教の経典には、阿弥陀如来や観世音菩薩、そして、勢至菩薩をイメージする方法が説かれている。
つまり、イメージすること、想うことが、愛することであるのは、サクラ姫やシャオランと同じだ。
だが、釈迦は最後の最後で言うのだ。
「想うとは、その名を覚えていることだ」
名は体を表すとか言うが、その名を覚えて、ずっと想うことで愛することが出来る。
そして、それそのことが念仏なのである。
アポローン神を愛するなら、ずっとアポローン神の名を想えば良い。
阿弥陀如来を愛するなら、「南無阿弥陀仏」の念仏を称えれば良い。
そうすれば、自我は自分より高い存在があることを知り、自然に頭を垂れる。
すると、神仏の魂が我々の魂の中に流入し、我々の魂は神仏の魂の中に広がる。
一休が言った、念仏を称えれば、心そのものが仏になるというのは、こういう意味であると思う。









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