因果応報・・・善いことをすれば善いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる。
迷信臭いが、それは正しいのではと思っている人は多いと思う。
それは単に、幼い頃に無意識の中に刻み付けられた文化的な教義に過ぎないかもしれないが、周囲の人や有名人、あるいは、歴史上の人物を見たら、やっぱり当っている・・・つまり、因果応報があるように思えるのである。
Web上でちらっと見ただけだが、あのホリエモンこと堀江貴文さんのように、およそ因果応報なんてことを言いそうにない人が、刑務所の中で、自分より強い立場の人に嫌な目に遭わされたことを、かつて、自分が社長だった時に社員に対してしたことと同じと感じ、「因果応報ですねえ」と言ってたりするのを見て、「やはりそうか」と思ったりするのである。
お釈迦様の教え、つまり、仏教も、つまるところ、因果応報なのだと思う。

因果応報の理を、程度の違いはあっても信じることで、悪いことをする抑止力になるかというと、まあ、それほどでもないと思う。
「こいつをいじめたら、俺が後で誰かにいじめられる。ここは1つ、(いじめは)やめておこう」
なんてことにはならず、いじめる時には、やっぱりいじめてしまう。
それで、実際、後で自分がいじめられることになるかもしれない。
これも程度の違いはあるが、だから、「恐ろしい」と感じる。
しかし、いくら恐ろしい、悪い事はやめようと思っても、やってしまうのが人間だ。

そこで、悪いことをした埋め合わせに善いことをすれば良いのだという考え方があり、これも、なんとなく正しいように思える。
確かに、「罪滅ぼし」のつもりで善いことをする人は多いと思う。
しかし、ある程度の年になれば、自分がやった悪いことに対し、自分に出来る善いことは僅かなものだと悟ることになる。
これでは、後の不幸は避けられそうもない。
そこで念仏である。
浄土仏教の教えによれば、極めて重い罪を犯していても、念仏で消えてしまう。
なぜなら、念仏ほど善い行為はないので、やってしまった悪の罪滅ぼしになって余りあるし、念仏の善を無効にするほどの悪はないからである。
これも迷信のようだが、よくよく考えれば、論理的だと分かるのである。
念仏とは、自分より高い存在を認め、それに意識を向ける行為だ。
それにより、身の程というものを知ることが出来る。
身の程を知ることほど立派なことはない。
身の程を知り、自我が退き、忘我、没我、無我となれば、宇宙意識と一体化し、宇宙の万能の力のサポートを受ける。
見えない部分もあるが、大よそではこうである。

しかし、何となく、「自分のやった悪い行いの報いが来たのかなあ」と思った時に、初めて熱心に念仏を称えたりする。
浅ましい気もするが、そんなものだ。
だが、浅ましくても、とにかく、他に手立てはない。
そんなわけで、念仏を称えるのである。

私が因果応報を強く感じるのは、かのソクラテスについてである。
彼は確かに、知恵というのは神から来るという素晴らしい真理を突き止め、証して見せた。
しかし、だからといって、実績ある人達に対し、「あんた達自体に知恵はないのだよ。それはあんたの力でなく、神の力なのだよ」と言って、露骨にプライドを傷つけるのもどうかと思う。
それで、最後は自分自身が理不尽に誹謗され、完全に面目を失うことになってしまった。
正しいことを言うにも、言い様があるのだと思う。
まあ、ソクラテスは、自分には知恵がないと認めているが、だからといって、むざむざ悲惨な目に遭う必要はない。
彼は口では神々を崇めていると言ったが、本当だろうか?
どうも、自分の知を誇り、神々への崇拝を欠いていたような気もする。
彼も、ちゃんと、念仏のような、神を崇める言葉を称えていれば、あれだけの知恵者だ。もっと良い想いが出来たと思うのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ