有名な宗教家の五井昌久氏が、「聖賢達の教えは素晴らしいとしても、では、普通の人達は具体的に何をすれば良いのかという方法論が示されていない」といったことを著書に書かれていたが、全くその通りであろう。
それで、五井氏は「世界平和の祈り」という、具体的で、しかも、誰にでも出来るものを作り、人々に教えたのだと言う。
非常に素晴らしいことであると思う。
しかし、私は、その世界平和の祈りは全く駄目なのだ。
世界平和の祈りとは、

世界人類が平和でありますように
日本(にっぽん)が平和でありますように
私達(わたくしたち)の天命が完(まっと)うされますように
守護霊(しゅごれい)様ありがとうございます
守護神(しゅごじん)様ありがとうございます

という祈りである。
私は、この祈りは、声に出しても称えても、心の中だけで称えても、さらには、特に祈りに集中していなくても、いつでもどこでも、どんな時でも称えて良いというところは、非常に気に入っている。
しかし、私は、この祈りの文言は、全く受け入れられない。
なぜなら、私はサイコパス(脳機能の不具合により、良心を持っていない)である。
この祈りをやってみたことがあったが、正直に言うと、強い嫌悪感、拒否感を感じるのである。
あえて露骨に言えば、本当に反吐が出た。
私は、世界人類の平和や幸福など、全く願っていない。
唯一大事なのは、自分の平和、自分の幸福、自分の快感、自分の満足である。
ただし、私は、それほど賢くはないとしても、それほど馬鹿でもないので、自分が世界に属しており、世界が平和でなければ自分も平和ではないことくらいは理解している。
だから、自分が世界を損なうようなことはなるべくしないつもりだ。
たとえ誰に対してでも、害悪をなせば、それが巡り巡って自分のところに帰って来る可能性がある。
例えば、私が会社の若い後輩を激しく叱責し、さらに罵倒までした後には、私は後悔する。
だが、それは、その後輩の心を傷つけたことを悔やむのではなく、その後輩が仕返しをしてきて酷い目に遭わないだろうかとか心配したり、自殺でもされたら、パワハラや暴力の嫌疑がかけられ、警察の尋問や、さらに家宅捜索なんかされたら、面倒でたまらないからである。
それだけのことなのだ。
私には良心などはないのである。

世界平和の祈りは、私には、レベルが高過ぎる。
だが、法然や親鸞の念仏は、私のような者でも全く問題がないのである。

法然のところに、戦場で数多くの敵を残虐に殺し、悔恨の念に苦しんでいた武将が来て、「私はどうやったら救われるか?」と問うと、法然は、「念仏を称えさえすれば良い」と答えた。
また、やはり、法然に、遊女が、「この浅ましい身で地獄に落ちない方法がありますか?」と尋ねたら、法然は、「やめるに越したことはない。しかし、そのままでも構わないから、念仏を称えさえすれば良いのだ」と答えた。
その武将や遊女は、まだ、自分の罪を嘆くだけ感心であるが、そうでない私でも、仏様は咎めないのである。
科学的な話だけにすれば、念仏によって、自我を超えた高い存在に意識を向けることで、自我が後退すれば、生命力が解放され、エネルギーが高まるのである。
そんな訳で、私は、世界平和の祈りは無理でも、念仏によって平和で強いのである。









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