私は、もしかしたら、人間は全てサイコパスなのではないかと思っている。
サイコパスとは、簡単に言えば「良心」を持っていない人間だが、良心を持てない理由として、次のように考えている。
まず、良心は愛着から生まれるという、アメリカの心理学者マーサ・スタウトの主張を認めよう。
そして、愛着は多分、共感から生じるが、アメリカの神経学者ジェームス・ファロンによれば、脳機能の不具合により、共感を感じ難い人がいる。
共感を感じなければ愛着が生まれず、愛着がなければ良心もない訳だ。

ジェームス・ファロンだけでなく、脳科学者達が、共感力の弱い脳の存在を認めているが、実際は、強いと言い、弱いと言っても、両方共、大して強くないのではなかろうか。
「共感の時代」だなんて言う人は多いが、人々が共感を覚えるのは、本能的に快なことだけなのであり、それが、良心にまで発展するかは、甚だ疑問である。

私は、自分が良心の呵責だとか、罪の意識を持たないためなのかもしれないが、他の人が、そんなものを持っていることが理解出来ないし、実際、人々の行動を見ていると、やはり、そんなものは持っていないか、持っているとしても、僅かなのだと思う。
昨日も書いたが、アニメ映画監督の宮崎駿氏が、ドワンゴ会長の川上量生氏が面白がって見せたCG動画に対し、「生命の尊厳への冒涜」と非難したが、川上氏は、宮崎氏の憤怒を理解出来ないはずだ。それを、川上氏はサイコパスで、宮崎氏はそうではないからだと考えることも出来るが、私は、2人の差は実はそんなに大きくないのだと思う。
宮崎氏のアニメの絵コンテやストーリーを調べたら、ひょっとしたら、宮崎氏にだって、うっかりサイコパスの性質を露呈してしまったものもあるのではないかと思う。
もし、ほとんど完璧に隠すlことに成功したとしても、実際には(サイコパスの性質が)必ずあるのだと私は思う。
単に、私が典型的サイコパスだから、そう思うだけなのかもしれないがね。
しかし、マザー・テレサだって、やっぱりそう(かなりサイコパスらしいことをしている)らしいのだ。
宮崎氏は、「身障者の友人を思い出して、(そのCGを)喜んで見る気になれない」と言ったが、それなら、私は、頭に救い難い障害を持っているのかもしれず、川上氏もそうなのかもしれないのである。

アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、「愛は神の領域のもので、人間には理解出来ない」と言ったという。
全く同感である。
では、人間には何が出来るのだろう。
イェイツは、「人間には憎しみは理解出来るので、それを捨てれば良い」と言ったらしい。
なるほど、そちらは可能性ならあるのかもしれない。
だが、「憎しみを捨てる」となると、ハードルが高過ぎる。
サイコパスは、過剰な自尊感情と他人の支配欲を持つ。
サイコパスは、それを、「自己信頼」「リーダーシップ」とすりかえるし、それも一理あると認めるとしても、過剰であってはならないことを理解出来れば良いのだと思う。
それが、サイコパスの限界である。
そして、それが「全ての」人間の限界かもしれない。









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