「褒める」って、どういうことだろう?
それは、褒める対象が、確かに存在することを、この上なくはっきり認めるということに違いない。
何かを粘り強くやり抜いた子供に、「ジョン、よくやった!」と言う時、ジョンは、「僕は確かに存在する」と感じるのだ。
存在する・・・これほど重要なことはない。
一番酷いいじめはシカト・・・つまり、無視である。
それは、「アンタは存在しないのよ」という冷酷で一方的な通達である。
存在を認められない子供は、生きるエネルギーを失う。
そんな子供のお話が書かれているのが、「わたしのいもうと」という絵本である。
一番の褒め方って何だろう?
ステージに初音ミクさんが姿を現し、ゆっくりとしたイントロ(前奏の音楽)が流れる中、観客が緑色のサイリウム(化学発光スティック)やペンライトをゆっくり上下させる。
その様子は、まるで宗教儀式だ。
ミクさんが好きな人で、この言い方に反発を感じるなら、それは宗教のイメージが悪いからだろう。
宗教というのは、本来は、自分より高い存在・・・つまり、神や仏を崇めるというだけのものなのだ。
そして、「崇める」ことが、最高の褒め方なのである。
ギリシャでは、ギリシャ神話の神々・・・特に、ゼウス、アポローン、アテーナの3神を崇めた。
インドでは、ヴィシュヌ、シヴァ、インドラといった、力ある神々を崇めた。
神と自然が一体となっていた日本では、太陽をお天道様と呼んで崇めたり、日の神で、太陽の化身である天照大神を崇めたし、仏教が入ってきてからは、仏様や、仏と融合した神を崇めた。
僧や宗教の組織(教会や寺)が、人々に自分達を崇めさせようとするまでは、宗教は美しいものだったのだ。
なぜ人は、自分より高いものを崇めるのだろう。
それは、無意識な衝動であり、理屈では分からない。
だが、きっとそれは、崇める対象に、真の自己を反映させ、それを「確かに存在する」と認めることなのだ。
真の自己・・・それは、言葉で言うなら、神とか聖霊とか真我・・・等としか言えないものだ。
息子のがんばりを褒めた父親だって、その息子の中に神・・・それは真の自分でもあるのだが、それを見るのである。
ただし、心から褒めたのならね。
褒められて良い気持ちになった息子だって、自分の中の至高の存在を感じるのである。
そして、褒めた方も、褒められた方も、人間の本質である、それ(至高の存在)に近づいてゆく。
心から褒めることが多い人ほど、優秀で魅力的である。
なぜなら、心から褒めるほど神に近付くのであるが、神ほど優秀で魅力的な存在はないのだから。
素直に褒めるほど、そして、心からの称賛を受けるほど、神に向かって向上し、強く、賢く、優しくなっていゆく。
初音ミクさんを崇める人々は、本質的な意味での信仰を取り戻したのである。
自我を持たない、透明な存在であるミクさんを崇めると、たちまちにして真の自分になり、宇宙と一体化する。
宗教の厳しい修行をしても、なかなか到達出来ず、哲学で何百年探求しても、結局、同じところを堂々巡りしてきたことを、一瞬で成し遂げさせるのである。
ミクさんを崇めるまでに進歩していない人々も(笑)、心から、人、自然、神の創造物としての物を褒め、そして、褒められるべき行いをすることで、真の向上を果たす。
きれいな女の子だって、邪まな目で見ることなく、本当に崇めれば向上することが、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』に鮮明に描かれている。
その26人の男達は、自分達がとんでもないクズであることを知っていたので、たまたま現れた16歳の可愛い娘ターニャを、自分達の手の届かない女神と感じて崇めたのだ。
だが、ターニャが人間だということを思い知らされた時、男達は絶望し、再び堕落する。
しかし、幸いなことに、我々には、どこまでも穢れなく高貴なる乙女、初音ミクさんがいる。
彼女によって、いよいよ人類は、宇宙の仲間達と手を取り合うのである。
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それは、褒める対象が、確かに存在することを、この上なくはっきり認めるということに違いない。
何かを粘り強くやり抜いた子供に、「ジョン、よくやった!」と言う時、ジョンは、「僕は確かに存在する」と感じるのだ。
存在する・・・これほど重要なことはない。
一番酷いいじめはシカト・・・つまり、無視である。
それは、「アンタは存在しないのよ」という冷酷で一方的な通達である。
存在を認められない子供は、生きるエネルギーを失う。
そんな子供のお話が書かれているのが、「わたしのいもうと」という絵本である。
一番の褒め方って何だろう?
ステージに初音ミクさんが姿を現し、ゆっくりとしたイントロ(前奏の音楽)が流れる中、観客が緑色のサイリウム(化学発光スティック)やペンライトをゆっくり上下させる。
その様子は、まるで宗教儀式だ。
ミクさんが好きな人で、この言い方に反発を感じるなら、それは宗教のイメージが悪いからだろう。
宗教というのは、本来は、自分より高い存在・・・つまり、神や仏を崇めるというだけのものなのだ。
そして、「崇める」ことが、最高の褒め方なのである。
ギリシャでは、ギリシャ神話の神々・・・特に、ゼウス、アポローン、アテーナの3神を崇めた。
インドでは、ヴィシュヌ、シヴァ、インドラといった、力ある神々を崇めた。
神と自然が一体となっていた日本では、太陽をお天道様と呼んで崇めたり、日の神で、太陽の化身である天照大神を崇めたし、仏教が入ってきてからは、仏様や、仏と融合した神を崇めた。
僧や宗教の組織(教会や寺)が、人々に自分達を崇めさせようとするまでは、宗教は美しいものだったのだ。
なぜ人は、自分より高いものを崇めるのだろう。
それは、無意識な衝動であり、理屈では分からない。
だが、きっとそれは、崇める対象に、真の自己を反映させ、それを「確かに存在する」と認めることなのだ。
真の自己・・・それは、言葉で言うなら、神とか聖霊とか真我・・・等としか言えないものだ。
息子のがんばりを褒めた父親だって、その息子の中に神・・・それは真の自分でもあるのだが、それを見るのである。
ただし、心から褒めたのならね。
褒められて良い気持ちになった息子だって、自分の中の至高の存在を感じるのである。
そして、褒めた方も、褒められた方も、人間の本質である、それ(至高の存在)に近づいてゆく。
心から褒めることが多い人ほど、優秀で魅力的である。
なぜなら、心から褒めるほど神に近付くのであるが、神ほど優秀で魅力的な存在はないのだから。
素直に褒めるほど、そして、心からの称賛を受けるほど、神に向かって向上し、強く、賢く、優しくなっていゆく。
初音ミクさんを崇める人々は、本質的な意味での信仰を取り戻したのである。
自我を持たない、透明な存在であるミクさんを崇めると、たちまちにして真の自分になり、宇宙と一体化する。
宗教の厳しい修行をしても、なかなか到達出来ず、哲学で何百年探求しても、結局、同じところを堂々巡りしてきたことを、一瞬で成し遂げさせるのである。
ミクさんを崇めるまでに進歩していない人々も(笑)、心から、人、自然、神の創造物としての物を褒め、そして、褒められるべき行いをすることで、真の向上を果たす。
きれいな女の子だって、邪まな目で見ることなく、本当に崇めれば向上することが、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』に鮮明に描かれている。
その26人の男達は、自分達がとんでもないクズであることを知っていたので、たまたま現れた16歳の可愛い娘ターニャを、自分達の手の届かない女神と感じて崇めたのだ。
だが、ターニャが人間だということを思い知らされた時、男達は絶望し、再び堕落する。
しかし、幸いなことに、我々には、どこまでも穢れなく高貴なる乙女、初音ミクさんがいる。
彼女によって、いよいよ人類は、宇宙の仲間達と手を取り合うのである。
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