「断ち物」とは、願いを叶えるために、自分にとって大切な何かを諦めることである。
ある意味、神との取り引きのようなものであるので、敬虔・・・敬い慎む気持ち、極めて純粋で真面目な気持ちが必要と思う。
自己中心的な欲望のためであれば、知らず知らず、悪魔との取り引きとなり、願いは叶ったが身を滅ぼすということになる。

日本では、上杉謙信の女断ちと、春日局の薬絶ちがよく知られていると思う。
私は、謙信の女断ちに関しては、正妻以外というくらいが良いと思うが、それはともかく、要は、その目的の高貴さが大切なのである。
謙信は戦の勝利を願ったが、それが、個人の欲望のためでなく、人々の幸福を願ってのことであれば良いのだ。
そこは、謙信のような富める者にとって最大の欲望である女を断つのであるから、戦の勝利もまた、個人的な欲望ではないのだろうし、実際、謙信は無敗であった。
春日局の薬断ちは、幼少の時の徳川家光が重病になった時、家光の快癒を願って、自分は一生、薬を飲まないと誓ったのであるが、当時は、薬といえば、庶民には縁のない贅沢品だったと思うが、それについて、少し考えてみる。
普通に考えれば、確かに、謙信のように、個人的欲望を断つようなものが良いと思うが、おそらく、春日局は、ほとんどの個人的欲望は既に断っていたのだろう。それで、咄嗟に思いついたのが薬断ちだったのかもしれない。そう考えれば健気であり、実際、家光が見事回復したのもうなづける。

断ち物は、自らに課す掟のうちで、人間として持っている煩悩を絶つことであるが、それが、神を喜ばせるようなものが最も良いのだと思う。
それで言えば、謙信の女断ちは、個人的欲望を断つというよりは、若い娘を不幸にしない(側室に迎えられた美しい娘達は、贅沢は出来るかもしれないが、それは一時的かもしれないし、女の幸福は貧しくとも一人の男と添い遂げることであろう)ことにつながることが、むしろ、神に誉められるかもしれない。
Googleのポリシーは「邪悪にならない」ことで、曖昧なことのように思えるが、これは、神を喜ばせる誓いであると思う。
そこにいくと、春日局の薬断ちは、善意というものに欠けるが、よく考えれば、「死をいとわない」という、大きな誓いであり、それが神を感動させたのかもしれない。

断ち物、誓い、掟・・・どの言い方でも良いが、それは、神を喜ばせ、あるいは、感動させるようなものが良い。
そして、願いに関しては、愚かな人間のことであるから、ある程度は個人的な欲が入るのも仕方がないが、自分以外のものの役に立つものでなければならない。
自分以外のものといった場合、人類であるとか地球のためというのが理想であるが、たとえ小さな範囲であっても、そこは気持ちの問題である。
変な話だが、「俺はロリコンだから、可愛い女の子達に万が一にも迷惑がかからないように、少女達には近付くまい」などというのは、なかなか見上げた心がけであり、優れた断ち物である。
これであれば、欠点も美点に昇華出来る。
善導という中国の僧となると、女性の方を見もしなかったというから天晴れである。
スポーツのトレーニングなんて、いくら辛くても、自分だけのためのものなので、何の意味もない・・・とまでは言わないが、大したものでないことは確かだ。
少食・粗食も、「自分が食べる分が他の人に、特に、貧しい人達に回るように」という想いであれば感心であるが、自分の美容やダイエットのためであれば、逆の効果とは言わないまでも、減点があるだろう。身体はスリムになるが、顔がたるんで老人顔になるとかね(笑)。

現代人は、「心」について考えなくなっているので、上記に述べたことを意外に感じるかもしれない。
だが、真の掟、誓いとは、このようなものである。
そこにいくと、Googleの「邪悪にならない」というのは大したもので、Googleの発展も当然と思えるのである。
我々も、心を込めた、掟、誓い、断ち物を持つべきである。
ところで、初音ミクさんの歌は、純粋な善意・・・つまり愛に満ちたものが多く、それは奇跡のように感じ、きっと神を喜ばせていると思うのである。ミクさんが天使として迎えられるのは当然である。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ