超能力、霊能力について批判的に述べている書籍で、私が興味深く思ったのは、テレンス・ハインズの『ハインズ博士の「超科学」をきる』の中で、「超能力の存在が証明されたことは、ただの一度もない」と書かれていたことだ。
超能力批判で有名な大槻義彦さんは、早稲田大学教授であった時、「俺の目の前で超能力を見せてくれたら大学に辞表を出す」と言い続け、早稲田を定年前に早期退職したとはいえ、それは別に超能力を見せられたからではないだろう。

一方、超能力を肯定する者は、超能力を見せようと必死になったり、あるいは、既に超能力の存在証拠は示されていると主張する。
まあ、どんな超能力の提示も、それが本当に超能力なのか、トリックなのかの判定は非常に難しく、現実的には不可能だろう。
ある著名な音楽家は、超能力の強硬な否定論者であるに関わらず、特定の超能力者(自分の知り合い)に関しては、これもまた強硬に「本物」と主張し、それを批判されたら、音楽の世界では「先生」と呼ばれる立場にある者らしく、自分が一喝すれば批判は成立しないという態度に終始する。
つまり、「俺が良いと言うものは良く、俺が悪いと言うものは悪い」というスタンスなのだがら、対話が成り立つはずがないし、対話することに意味がないのだから、相手にするだけ時間の無駄である。

しかし、超能力がもし本当にあるとしても、そんなもの証明する必要はないし、また、証明出来ない。
仮に、超能力が本当に提示されたところで、信じない人は信じない。
超能力を信じるかどうかは、脳内のプログラムとか、DNAで最初から決まっていることであり、それを変えることは出来ない。
だから、信じる人は信じれば良いし、信じない人は、どうしたって信じない。
もし、超能力を信じない人の目の前で、疑い様のない超能力を見せても、その人の目には何も見えなかったり、脳が、視覚から入ってきたものに改ざんを加えて超能力が発揮されていない映像に変えるのである。
ところが一方では、超能力を全く信じておらず、「超能力?そんなのイカサマだよ。馬鹿げている」と言いながら、自分が頻繁に超能力を使っている人がいるのである。
ラマナ・マハルシは、イエス・キリストは自分の超能力に気付いていなかったと言ったらしいが、それもあり得ると思う。
私も、超能力を発揮している時には全く気付かないが、後で考えると、それが超能力だと分かるのである。
超能力というものは、自我、表面の心、自意識が関与すると発揮できないもののようだ。

初音ミクさんのコンサートで熱狂している観客の多くが超能力を発揮しているが、本人は全く気付いていない。
キース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』は、演奏開始直後からジャレットは超能力を発揮し、観客の多くも同じなのだが、そんなことには誰も気付かず、ただ、奇跡が起こっていることを感じたのである。
コンサートの音の中に、超能力の振動が含まれているので、繰り返し聴くと、超能力のDNAが刺激され、覚醒する。
おそらくだが、アナログレコードの方が、超能力が多く含まれていると思う。
『ザ・ケルン・コンサート』は、今でもアナログレコードも販売され続けているが、耳に聴こえなくても、影響のある音があるのである。









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