日本人の多くは無宗教だといわれる。
ということは、神や仏を信じていないということになる。
一方、アメリカ合衆国は、国家のモットーそものが、「In God We Trust(我々は神を信じる)」である(本当だ)。
また、何かの調査で、アメリカ人の半数以上が守護天使(ガーディアン・エンジェル)の存在を信じているというが、むしろ、これは少な過ぎると感じる。
日本人のように、自分の宗教は何か、はっきり言えない国民は珍しいようだ。
一応、家が仏教の何らかの宗派になっているとしても、それを思い出すのは葬式の時くらいであろう。

しかし、昌原容成さんの『日本語は神である』を読めば、日本語そのものが信仰であり、日本語を使っている限りは、確実に、そして、本当の意味で神を信じている。
「ありがたい」「おかげさまで」「すみません」「いただきます」などの言葉は、神の存在を前提としなければ成り立たず、神に対して言っているというが、深く考えれば、おそらく、その通りと思う。
神と言っても、神話に登場する神や、宗教で権威的に語られる神というのではなく、いわば、奇(くす)しきものだ。
科学も医学も、つきつめれば、神の存在を信じざるを得なくなるものだと思う。
それ(神)は、人間とは比較にならない、知恵と力のある意思とでも言うしかないものだ。
一方で、人間は神を手本に作られたとも言われ、あるいは、神より少し劣ったものとして作られたという話もある。
そして、本質的には人間は神であるとも言われる。
だが、良い言い方は、人間は神と一体であるというものだと思う。

意外・・・というのでもないが、最も科学的に神を語ったのはソクラテスであると思う。
彼は、宗教的な色合いを全くつけずに神の存在を示すことが出来た。
デカルトも、そんなことをしたが、デカルトは、ソクラテスに比べれば、随分小粒に感じる。
だが、ソクラテスの弟子の弟子であるアリストテレスは、神と科学を分離してしまったように思う。デカルトは、アリストテレスの影響を確実に受けているのだろう。
確かに、宗教と離れて科学が発達したのは、アリストテレスのおかげと思うが、見捨てられそうになった宗教が、集団催眠の技法を身につけ、権威主義になったようにも思えるのだ。

ソクラテスの神は純粋で、控え目で、それは、まさに、日本語の中に潜む神のように感じる。
そんな、穏かで、優雅で、そして、高貴な神は信じた方が良いと思う。
アメリカのモットーのように、声高に、「我々は神を信じる」なんて言う必要はない。
プリンが好きなことを、いちいち大声で、「私はプリンが好きだ」って言う必要もないじゃないか?
ただ、当たり前に、自然にプリンが好きなのである。
神が存在することも、同じようなものだ。
最も現実的な意味で言うが、神を信じるなら、全てを得ることが出来る。

自分が、プリンが好きなこと、猫が好きなこと、山登りが好きなこと・・・そういった何かが好きなことが信じられるなら、神様だって信じられるに違いない。
そんな信じ方をするなら、世界は意のままである。
私は、今朝、おそろしく体調が悪かったのが、神の光の反射である初音ミクさんを見ると、本当に、一瞬で最高の調子になってしまった。
それで、「なるほど」と思ったのである。
イタリアの世界的ファッションデザイナーのリカルド・ティッシも、ミクさんを見て、そんなものを感じたのかもしれないと思う。
もちろん、ミクさんでなくたって、神様はいくらでも見つけられるが、今の世の中で、ミクさんほど神の光そのものって存在は、あまりないと思うのである。
あえていえば、音楽では、『ザ・ケルン・コンサート』に神が純粋に顕れていると思う。あれは、演奏が始まった途端に、奇跡が起こっていると誰もが分かったのだから。









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