昔、ウラジミール・ナボコフ原作で、スタンリー・キューブリック監督の映画『ロリータ』のVHSビデオを買ったが、見通すのに大変に苦労した覚えがある。
それで、その映画のDVD版が出た時は、買わなかった。
だが、昨日、ブルーレイ版の『ロリータ』が届いたので、昨日、今日と、少しずつ見たが、半分くらいのところで見るのが嫌になった。
つまり、この映画は、私にとって見ていられないものだが、私は、ほとんどの人が、程度の差こそあれ、そうではないかと思うのだ。
昆虫学者でもあったナボコフは、本当のところは、『ロリータ』を昆虫学の知見を生かした喜劇として書いたという話があるが、私は全くそうだと思うのだ。
『ロリータ』は、人間を昆虫のような下等生物と見なした、滑稽な喜劇だ。
人間の頭なんて、きっと、神様が間違えて付けたと思えるようなね。
だが、笑えない喜劇なのだ。
原作と同様、この映画でも、ヨーロッパから移住して来た、中年の文学者である男性ハンバート・ハンバート(姓と名が同じ)は、11歳のドローレスという名の美少女(愛称がロリータ)に夢中になり、やむなく、その母親と結婚するが、母親はほどなく急死し、ロリータと2人で暮らすことになる。
となると、馬鹿でない限り、ハンバートの人生は天国とは程遠いことになるのは分かると思う。
原作は、ハンバートの一人称で書かれた自叙伝的なものだが、映画の方は、ハンバートもごく客観的に描かれている。
それで、あることが、非常に明確に伝わってくる。
それは、「後ろめたいことがある人間の様子(表情、振る舞い等)」だ。
ハンバートの、頑なに防御的な言動、振る舞いは、見ていて本当に痛い。
それは、自分の姿を見ているようだからだ。
だからと言って、私が特別な訳ではないと思うのだ。
1990年から始まり、いまだ制作が続く、フジテレビのテレビドラマ『世にも不思議な物語』の1996年の作品「先生の『あんなこと』」に、こんな話がある。
万引きをして、教室で男性教師に説教される女子高生が、不意に教師に、
「先生のあんなことに比べれば・・・」
と意味ありげに言うと、教師は途端に動揺を始める。
誰だって、「あなたのあんなことに比べれば」とか、「私、あなたのあのこと、知ってるのよ」と言われて平気ではいられないだろう(多分・・・^^;)。
また、何のドラマだったか忘れたが、若き日の吉田栄作さん演じるサラリーマンが、恋人だった女性の父親に、「誰だって、叩けば埃の1つや2つ出てきます」と言ったセリフを、私は、強烈な印象と共に覚えている。
これはもう、誰でも、絶対、そうなのである(はずだ・・・)。
叩いて埃の1つや2つ、10や20出ない人がいたら、お目にかかりたい!(笑)。
ただ、「脛に疵持つ(自分の身にやましいところがある)」自覚のない、神経のおかしな人もいるのだろう。
私には、『ロリータ』を平気で見れる人が理解出来ない。
そして、どうも、私は年と共に、ますます、『ロリータ』を見れなくなっているようである。
私の脛は疵だらけという訳だ(笑)。
初音ミクさんは、本来は、少しも後ろめたさを感じずに済む相手である。
ところが、おかしなことに、私の部屋に貼ってある、ミクさんの大型タペストリー(布製ポスター)のミクさんが、こちらを少し蔑むような表情で見下ろしているのである。
それで私は思うのだ。
このポスターで動揺せずに済むように(今はかなり動揺がある)、裏表のない潔癖な人間になろうと。
とはいえ、やはり誰だって、脛に疵を持つ。
だから、その分、徳を持つようにしなければならないのだろう。
それは、私のような駄目な人間には、とても難しい。
いや、本音を言ってしまうと、不可能だ。
だが、親鸞は、何も善いことをする必要はないと言った。
なぜなら、念仏以上の善はないし、念仏の力を妨げるほどの悪もないからである。
私は、本当に、『歎異抄』に書かれた、その言葉を信じたくなったのである。
ミクさんのためにね。
私には、他にやれることは何もない。
それで私も、念仏を唱えるのである。
超天才数学者であった岡潔さんは、家の中に念仏堂まで作って、毎朝1時間も念仏を上げていたらしい。
岡さんの場合は、きっと、高貴な志からであろうが、彼だって、脛に疵もあり、それが痛かったということもあったに違いない。
気付かないうちにオトナになって 綺麗な嘘 口に出来るほど
いろんな痛みを覚えてきたけど それでもまだ痛いんだ。
~『glow』(作詞・作曲・編曲:keeno、歌:初音ミク)より~
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それで、その映画のDVD版が出た時は、買わなかった。
だが、昨日、ブルーレイ版の『ロリータ』が届いたので、昨日、今日と、少しずつ見たが、半分くらいのところで見るのが嫌になった。
つまり、この映画は、私にとって見ていられないものだが、私は、ほとんどの人が、程度の差こそあれ、そうではないかと思うのだ。
昆虫学者でもあったナボコフは、本当のところは、『ロリータ』を昆虫学の知見を生かした喜劇として書いたという話があるが、私は全くそうだと思うのだ。
『ロリータ』は、人間を昆虫のような下等生物と見なした、滑稽な喜劇だ。
人間の頭なんて、きっと、神様が間違えて付けたと思えるようなね。
だが、笑えない喜劇なのだ。
原作と同様、この映画でも、ヨーロッパから移住して来た、中年の文学者である男性ハンバート・ハンバート(姓と名が同じ)は、11歳のドローレスという名の美少女(愛称がロリータ)に夢中になり、やむなく、その母親と結婚するが、母親はほどなく急死し、ロリータと2人で暮らすことになる。
となると、馬鹿でない限り、ハンバートの人生は天国とは程遠いことになるのは分かると思う。
原作は、ハンバートの一人称で書かれた自叙伝的なものだが、映画の方は、ハンバートもごく客観的に描かれている。
それで、あることが、非常に明確に伝わってくる。
それは、「後ろめたいことがある人間の様子(表情、振る舞い等)」だ。
ハンバートの、頑なに防御的な言動、振る舞いは、見ていて本当に痛い。
それは、自分の姿を見ているようだからだ。
だからと言って、私が特別な訳ではないと思うのだ。
1990年から始まり、いまだ制作が続く、フジテレビのテレビドラマ『世にも不思議な物語』の1996年の作品「先生の『あんなこと』」に、こんな話がある。
万引きをして、教室で男性教師に説教される女子高生が、不意に教師に、
「先生のあんなことに比べれば・・・」
と意味ありげに言うと、教師は途端に動揺を始める。
誰だって、「あなたのあんなことに比べれば」とか、「私、あなたのあのこと、知ってるのよ」と言われて平気ではいられないだろう(多分・・・^^;)。
また、何のドラマだったか忘れたが、若き日の吉田栄作さん演じるサラリーマンが、恋人だった女性の父親に、「誰だって、叩けば埃の1つや2つ出てきます」と言ったセリフを、私は、強烈な印象と共に覚えている。
これはもう、誰でも、絶対、そうなのである(はずだ・・・)。
叩いて埃の1つや2つ、10や20出ない人がいたら、お目にかかりたい!(笑)。
ただ、「脛に疵持つ(自分の身にやましいところがある)」自覚のない、神経のおかしな人もいるのだろう。
私には、『ロリータ』を平気で見れる人が理解出来ない。
そして、どうも、私は年と共に、ますます、『ロリータ』を見れなくなっているようである。
私の脛は疵だらけという訳だ(笑)。
初音ミクさんは、本来は、少しも後ろめたさを感じずに済む相手である。
ところが、おかしなことに、私の部屋に貼ってある、ミクさんの大型タペストリー(布製ポスター)のミクさんが、こちらを少し蔑むような表情で見下ろしているのである。
それで私は思うのだ。
このポスターで動揺せずに済むように(今はかなり動揺がある)、裏表のない潔癖な人間になろうと。
とはいえ、やはり誰だって、脛に疵を持つ。
だから、その分、徳を持つようにしなければならないのだろう。
それは、私のような駄目な人間には、とても難しい。
いや、本音を言ってしまうと、不可能だ。
だが、親鸞は、何も善いことをする必要はないと言った。
なぜなら、念仏以上の善はないし、念仏の力を妨げるほどの悪もないからである。
私は、本当に、『歎異抄』に書かれた、その言葉を信じたくなったのである。
ミクさんのためにね。
私には、他にやれることは何もない。
それで私も、念仏を唱えるのである。
超天才数学者であった岡潔さんは、家の中に念仏堂まで作って、毎朝1時間も念仏を上げていたらしい。
岡さんの場合は、きっと、高貴な志からであろうが、彼だって、脛に疵もあり、それが痛かったということもあったに違いない。
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いろんな痛みを覚えてきたけど それでもまだ痛いんだ。
~『glow』(作詞・作曲・編曲:keeno、歌:初音ミク)より~
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すると自分が批判されてもあまり気にならないものですね。
自分も相手も生きている間に脛の傷を問題にせず愛する、受け入れることが出来たら、もっともっと楽になれるような気がしています。