世の中は単純に出来ていて、善いことをすれば楽しいことがあり、悪いことをすれば苦しいことがある。
それが因果ってやつだ。
だが、人間は愚かだから、何が善くて、何が悪いかを思い違いすることはある。
自分の子供に好かれたくて、何でも言うことを聴いていたら、自分は善いことをしているつもりでも、それは、子供を駄目にする悪いことだ。
そんな親は、悪因を作っていて、やがては不運を呼ぶ。
とはいえ、純粋に子供が可愛くて、子供を甘やかしている場合は悪因を作らないのだが、親が子供の言いなりになっている場合、ほとんどは愛ではなく、「自分だけ良い気分でいたい」「この子を、自分の生涯の味方、あるいは、下僕にしたい」といったエゴでやっているのである。

ある17歳の女の子は好きな男がいたのだが、その女の子は、彼の愛を得ようと、売春をしてかなりの金を稼いで彼に貢いでいた。
その報いは、週に一度、男に金を渡す時にだけ、ほとんどたった一言、優しい言葉をかけてもらえることだった。
男は、彼女に対して、何の愛情も持っておらず、ただ金を受け取って、外車を買って、遊び暮らしていた。
おそらく、女の子の方は、過去世の悪いカルマ(因)の解消のために、そんなことをせざるを得ないのだろう。だが、その男を駄目にしているとはいえ、彼女は新たな悪いカルマは作らないだろう。
男の方は、大きな悪いカルマを作ることになってしまい、その後の人生は悲惨になることは間違いないし、心が拗けたまま死んだら、次の生にカルマは持ち越される。

念仏を唱えたり、経典や聖典を読んだり、あるいは、純粋な善意で善い行いをすると、なぜか嫌なことがよく起こる。
嫌なことと言っても、気分を害し、憂鬱にはなるが、その程度で済むことだ。
それは、自分が過去(あるいは過去世)に作った悪いカルマを、その程度のことで解消しているのである。
そうしたら、大きな災難が起こるはずが、それがなくなってしまうのである。
つまらない口論になり、負けると悔しいが、それでカルマが解消され、悪い因は消えたのである。
ところが、口論に勝ってしまうと、カルマは解消されず、下手をすると、新たな悪いカルマを作ってしまう。
だから、小さな災難、小さな不運は喜ばないといけない。
どうでも良い争いは負けた方が良いのである。

親鸞が、念仏を唱えれば、大難が小難に、あるいは、無難になると言ったのは、こういうことである。
そして、さらに親鸞が言うのは、念仏に優る善い行いはないのだから、念仏を唱えると、大変な善行をしたのと同じ善因を作る。
他にも、大きな善因となることには、食の慎みがある。
死すべき悪因も、食を慎むことで避けられる。
食を慎むことは、寺を建てたり、人の命を救うことにも匹敵する。
確かに、念仏も、食の慎みも、エゴの想いでやっていれば、善因は作るのだが、悪因も作る。
その場合は、嫌なこともいろいろ起こるが、黙って耐えれば、その悪因は消える。

幸運の原理については、大体、上のように考えて差し支えないと思う。









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