テレビを見る。
そうではない。ニュースやドラマや映画を見るのだ。
本を読む。
そうではない。小説やエッセイを読むのだ。
DVDを見る。
そうではない。映画やアニメやコンサートを見るのだ。
舞台を見る。
そうではない。劇を見るのだ。
我々は、中身より、器、入れ物を重視する癖がついてしまっている。
だが、「本を読んでるんじゃない。聖書を読んでるんだ」と言ったところで、これも違う。
聖書というお話を読むのではなくて、英知を読もうとしているのだ。
映画や舞台を見るのだって、作り手の意思を見るのだ。
ニュースを見ることすら、たまたま展開された運命を見ることなのだ。
そして、究極的には、情報を見るのだ。
情報は、この世という三次元空間に投影されて、目に見えるものを作るが、悲しみや憎しみや愛情といった心も作る。
では、愛を作るかというと、それは出来ない。
愛に形はなく、愛に心はないからだ。
人間は、憎しみは理解出来るが、愛は理解出来ない。
愛とは何かというと、人間的には、「やばいもの」としか言いようがない。
「やばい」というのは、最も単純には、「危険」ということだ。
愛は危険だ。
初音ミクさんは本当に危険である。
イエス・キリストは危険であり、阿弥陀如来は危険だ。
イェイツの小説『まだらの鳥』で、マイケルはマーガレットを見て思ったのだ。
「あまりの美は、かえって哀れさを感じさせる」
そうだ。あまりに美しいマーガレットは危険である。
初音ミクさんのコンサートに来ていた人がこう言う。
「僕たちはスクリーンを見に来ているんじゃない」
じゃあ、何を見ている?
危険を見に来ているのだ。
危険を見ずにいられないのだ。
人間は危険が嫌いだが、同時に危険が一番好きなのだ。
我々は、危険を避けたがるが、危険に飛び込まずにはいられない。
岡本太郎は、「僕はいつでも危険を選んだ」と言ったが、みんな本当はそうしたいのだ。
イギリスのことわざに、
「爆発現場に近いほど生き残れる」
というのがあるらしい。
全くその通りなのだ。
テグジュペリの『星の王子さま』で、大人に家の説明をする時、フィーリングで説明しても全く分かってもらえないが、「1万フランの家」って言えばすぐ分かってもらえると書かれていた。
だが、子供には、その家が、どれほどやばいかを言わないと分からないのだ。
壁のレンガの微妙な色合い、庭に咲いている花が、そのやばさ、危険さを表しているのである。
猪子寿之さんが社長をやっているチームラボという会社では、「やばいもの」を作らないといけないらしい。
やばくないと、猪子社長に怒られるのだろう。
NHKの番組では、やばいを「びっくりさせる」と表現していたが、やっぱり、やばいとは、危険という意味なのだ。
人間が一番嫌いで一番好きなものは冒険だ。
冒険は、言うまでもなく危険だ。
夜空の星を掴み取るのは危険なことだ。だが、それをしないことは、もっと危険なのだ。
「やばい、やばい、どうしよう!」
人間は、そんな生き方が一番苦しくて、一番楽しい。
そして、私は、あまりにやばい初音ミクさんと生きるのである。
本当に生きるには死なないといけない。
殺してくれるやばいものが生かしてくれる。
一休さんは竹の刀を指して言う。
「今の坊主は、この刀と同じ。人を殺すことなんか出来るものか。まして、生かすことなんか出来るものか」
本物の坊主は、殺してくれる。生かしてくれる。
初音ミクさんは私だけを殺してくれるのである。
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そうではない。小説やエッセイを読むのだ。
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そうではない。劇を見るのだ。
我々は、中身より、器、入れ物を重視する癖がついてしまっている。
だが、「本を読んでるんじゃない。聖書を読んでるんだ」と言ったところで、これも違う。
聖書というお話を読むのではなくて、英知を読もうとしているのだ。
映画や舞台を見るのだって、作り手の意思を見るのだ。
ニュースを見ることすら、たまたま展開された運命を見ることなのだ。
そして、究極的には、情報を見るのだ。
情報は、この世という三次元空間に投影されて、目に見えるものを作るが、悲しみや憎しみや愛情といった心も作る。
では、愛を作るかというと、それは出来ない。
愛に形はなく、愛に心はないからだ。
人間は、憎しみは理解出来るが、愛は理解出来ない。
愛とは何かというと、人間的には、「やばいもの」としか言いようがない。
「やばい」というのは、最も単純には、「危険」ということだ。
愛は危険だ。
初音ミクさんは本当に危険である。
イエス・キリストは危険であり、阿弥陀如来は危険だ。
イェイツの小説『まだらの鳥』で、マイケルはマーガレットを見て思ったのだ。
「あまりの美は、かえって哀れさを感じさせる」
そうだ。あまりに美しいマーガレットは危険である。
初音ミクさんのコンサートに来ていた人がこう言う。
「僕たちはスクリーンを見に来ているんじゃない」
じゃあ、何を見ている?
危険を見に来ているのだ。
危険を見ずにいられないのだ。
人間は危険が嫌いだが、同時に危険が一番好きなのだ。
我々は、危険を避けたがるが、危険に飛び込まずにはいられない。
岡本太郎は、「僕はいつでも危険を選んだ」と言ったが、みんな本当はそうしたいのだ。
イギリスのことわざに、
「爆発現場に近いほど生き残れる」
というのがあるらしい。
全くその通りなのだ。
テグジュペリの『星の王子さま』で、大人に家の説明をする時、フィーリングで説明しても全く分かってもらえないが、「1万フランの家」って言えばすぐ分かってもらえると書かれていた。
だが、子供には、その家が、どれほどやばいかを言わないと分からないのだ。
壁のレンガの微妙な色合い、庭に咲いている花が、そのやばさ、危険さを表しているのである。
猪子寿之さんが社長をやっているチームラボという会社では、「やばいもの」を作らないといけないらしい。
やばくないと、猪子社長に怒られるのだろう。
NHKの番組では、やばいを「びっくりさせる」と表現していたが、やっぱり、やばいとは、危険という意味なのだ。
人間が一番嫌いで一番好きなものは冒険だ。
冒険は、言うまでもなく危険だ。
夜空の星を掴み取るのは危険なことだ。だが、それをしないことは、もっと危険なのだ。
「やばい、やばい、どうしよう!」
人間は、そんな生き方が一番苦しくて、一番楽しい。
そして、私は、あまりにやばい初音ミクさんと生きるのである。
本当に生きるには死なないといけない。
殺してくれるやばいものが生かしてくれる。
一休さんは竹の刀を指して言う。
「今の坊主は、この刀と同じ。人を殺すことなんか出来るものか。まして、生かすことなんか出来るものか」
本物の坊主は、殺してくれる。生かしてくれる。
初音ミクさんは私だけを殺してくれるのである。
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