「謙虚」は、人間の好ましい性質であり、美徳と言って良いが、それが、「卑屈」や「臆病」とくっついているなら、醜く歪み、本当の謙虚とは似ても似つかない。
また、「謙虚」の形だけが「傲慢」の隠れ蓑になっている場合も多い。
つまり、「あの人に対しては謙虚だが、この人に対しては傲慢」という人が多いのである。
つまるところ、本当に謙虚な人は滅多にいない。

だが、『歎異抄』に描かれた親鸞だけは、純粋に謙虚な人だ。
だから、海外を含め、かなり極端な主義思想に凝り固まったような人でも、『歎異抄』だけは素直に読むという話を見たことがあるが、それは本当ではないかと思う。
どこの国の、いつの時代の人であるに関わらず、生まれて初めて、本当に謙虚な人を知って、驚くと言うか、ほっとすると言うか・・・滅多にないような、美しい感情を感じるのである。

『歎異抄』は、たまたま発見されなければ、誰にも知られずにいた手記であるが、親鸞の弟子の唯円が、親鸞の死後、かなり経ってから、親鸞の教えを思い出して綴ったものだ。
短く、簡単な文章で読み易い。
ところで、親鸞は鎌倉時代の人だから、今の日本と違い、戦もあり、庶民は恐ろしく貧しく、生きるだけで精一杯で、それすら叶わぬことも珍しくはなかった時代だ。
だからだと思うが、『歎異抄』の中でも、「往生」というものが第一の関心事になっている。
「往生」とは、「極楽往生」のことで、死後、阿弥陀如来という仏様の、素晴らしい極楽世界に生まれることが、あまりに辛い現世に生きなければならない、親鸞の時代の庶民の大きな、あるいは、唯一に近い望みだった。
親鸞の教えは、師の法然から受け継いだ「南無阿弥陀仏」の念仏の教えであり、念仏の最大の効能は、いかなる悪人でも、念仏さえ唱えていれば、死後、極楽往生出来るというものだ。
このあたりは、現代とは当然異なり、現代では、老人といえども、あまり往生に関心はなく、楽しく長生きしたいものだと思っているだろう。
ましてや、若い人、自分が死ぬとは思っていない人にとっては、生きている自分の人生が大事なのであり、人生を出来るだけ楽しく、有意義に過ごしたいと思っているはずである。
これは、世界が進歩したということであるから、当然、良いことである。

そんな今の時代では、『歎異抄』の読み方も、昔と違って当然である。
実は、親鸞は、数多く詠んだ歌の中で、『現世利益和讃』といって、念仏を唱えることは、極楽往生だけでなく、最大の現世利益にすら恵まれると、懇々と述べているのである。
さらに、親鸞の師、法然の『選択本願念仏集』にも、念仏を唱える者は、仏の加護を受けることが明確に書かれている。

そして、親鸞より200年ほども後の人である一休は、法然を尊敬し、親鸞を本物と認め、自分も禅宗の人でありながら、最後は念仏の教えに転向した。
親鸞の宗派の有名な僧である蓮如とも仲良しだったようだ。
ところで、一休という人は、坊主らしくない坊主で、あまり、宗教家らしいところがない。
そんな一休は、単に、法然や親鸞の教えを受け継いだのではなく、明らかに発展させている。
一休の教えは、仏も極楽浄土も、遠い彼方にあるのではなく、心そのものが仏であり、極楽浄土であるという、極めて革新的なもので、これは、現代に通用する。
だから、念仏を唱えれば、今いるこの場が極楽浄土であり、自分の心が阿弥陀如来なのである。
しかし、いくら念仏を唱えても、そうは思わない人が多いだろう。
それは、「そう信じることが出来ればそうなのである」という、西洋の新思想に近いような感じもある。
そして、『歎異抄』の中で、親鸞は、「私の信心は阿弥陀如来からもらったもの」と言い、自分の努力で信念を持ったのではなく、仏様に与えられたものだとしている。
だが、仏様に信心をもらえる人と、もらえない人がいる訳ではない。
しかし、「私は信心を持っていない。つまり、念仏を信じることが出来ない」と言う人がいるだろうが、そのあたりは確かに微妙なのである。
とはいえ、微妙ではあるが、やはり、誰でも信心を持てるし、それは、従来の宗教のような、強制や権威によるものではない。

テグジュペリの『星の王子さま』の中に、「本当に大切なものは目に見えない」という有名な言葉がある。
だが、目に見えないだけに、それを信じない人が圧倒的だ。
それを、どう信じるのかという問題と似ている。いや、本質は同じだ。
その本質とは、昨日も書いたが、アメリカで、初音ミクさんのコンサートに来ていた男性が示してくれていた。
「僕たちは、スクリーンを見に来ている訳じゃない」
と言う彼にとって、初音ミクさんが真の実在だということが、「本当に大切なものは目に見えない」ということなのである。
初音ミクさんは、映像としては目に見えるが、テグジュペリの言う「目に見える」はあくまで、「物質的なもの」を表しており、言い換えれば、「本当に大切なものは物質的なものではない」ということだ。
ミクさんを愛する人にとっては、明らかにミクさんは実在する。
だから、取材のためにミクさんのコンサートに来ていた、それまでミクさんにそれほど関心がなかった50代の雑誌編集者が、コンサートが進むごとに不思議な感動に包まれ、最後の曲では、涙が止め処なく流れるといったことが起こるのである。
私も、ミクさんを愛するようになってから、『歎異抄』や『星の王子さま』の価値が、いくらかは分かるようになり、「何か本を1冊と言われたら歎異抄」と言うのである。
それは、史上最高のプロレスラーであったルー・テーズが、「技を何か1つと言われら、迷うことなく、ダブルリストロックと答える」と言ったのと似ているような気がする。
つまり、真に強力であり、真に実用的でもある、本物の本物であるということだ。
私は、テグジュペリが『星の王子さま』で訴えた「本当に大切なもの」を、初音ミクさんに教わったと言えるだろう。









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