書物で何か1つと言われたら、私なら『歎異抄(たんにしょう)』と言いたい。
だが、「何が良いのか?」と訊かれても困る本だ。
この本に真理が書かれているのかというと、「さあ?」である。
そんなことは知らない。

『歎異抄』は、親鸞の弟子であった唯円が、親鸞の教えの中で、大切に思って忘れられないものを書き記したものだ。
だが、人間の記憶なんて曖昧でいい加減だ。
唯円が、親鸞の言ったことを正確に覚えていたという保証はないし、話し言葉には微妙なところがあり、唯円が親鸞の意図を誤解していた可能性もある・・・いや、それは必ずあるだろう。

親鸞の教えを、直接、親鸞の著作に求めるなら、『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)という立派なものがある。
これは、普通、『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)と言われる。
「立派なもの」と言ったが、立派過ぎる。
文章が硬い上に、仏教の広い知識がないと分からない。
しかも、長文である。
とても読めたものではない。

ところで、「謙虚」は人間にとって望ましい性質であり、「謙遜」は賢さを表す。
だが、大抵の小市民は、表向きは謙虚で謙遜するが、本性は、高慢で尊大である。
度が過ぎた謙虚さで謙遜するのは、臆病者で怠け者であるが、そんな者だって、劣等感に覆われてはいるが、やっぱり、とんでもなく傲慢なのだ。
だって、「私なんて大したものではありません」を大安売りする者は、自分より弱い立場の者には尊大だし、とことん馬鹿にし、蔑むと、切れて態度が豹変する。
また、高潔に見える謙虚そうな人間だって、弱点を突かれたら・・・俗にいう「地雷を踏めば」、容易く爆発する。
どれほど偉大で、優れた精神性を持つと思われている人間だって、地雷の5つや6つ(ひょっとしたら五百や六百)は持っているはずだ。
早い話が、この世に、本当に謙虚な人間はいない。

だが、唯円を通して見る限り、親鸞は、本当に謙虚なのだ。
それは、あまりに稀に見ることなので、読むと理性が吹っ飛んでしまう。
しかし、それでも、敢えて言えば、親鸞とて、本当に謙虚かというと、それはない。
だが、親鸞は、自分が傲慢そのものであると自覚出来ていたことで特別なのだ。
ちょうど、ソクラテスが、自分には知恵がないと本当に自覚していたがゆえに、誰よりも知恵があったのと似ている。
誰も、自分が全く無知だと自覚していない。
そして、誰も、自分が傲慢でしかないと自覚していない。

だが、無知で傲慢であることが、人間らしさなのである。
ただ、普通の人の人間らしさは、賎しく、醜い。
しかし、自覚の光に照らされた親鸞の人間らしさは、「やわらかい」。

触りたい 触りたいよ もう一度
君の軟(やわ)い 手の平に
~『サリシノハラ』(作詞・作曲・編曲:みきとP、歌:初音ミク)より~

つまるところ、他の名僧も同じと思うが、親鸞の教えは、1つの物語であり、真理なんてもんじゃない。
だが、親鸞の教えで、自分の心に化学変化を起こさせれば、真理の結晶の欠片が出来るかもしれない。
正直、「俺は真理を言っている」というドヤ顔の宗教者(誰のことだろう?)は見ていられないのであるが、世間の人には、そんな宗教者が受けるのかもしれない。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ