私は、有名な俳優だった丹波哲郎さんには本当に感謝している。
とはいえ、別に丹波さんと面識はない。
丹波さんの本を読んだだけだ。
だが、それらの本に書いてあるような霊界のことを、私が信じているかというと、何とも言えない。
丹波さんは、霊界や転生(生まれ変わり)、そして、それに関連する本を数千冊読んだという。
基本的には、エマニュエル・スウェーデンボルグの本の内容を基礎にしているように思うが、それだけの数の本を読んだら、スウェーデンボルグと全然違う説も多いので、そういったものの影響もかなり受けているだろう。
例えば、スウェーデンボルグは、生まれ変わりを否定していたが、丹波さんは完全に肯定している。
しかし、そんなことはどっちでも良い。
きっと、人間の頭では理解し難い理由で、転生は、有るとも無いとも言えるのだろう。
この考え方もまた、丹波流なのだ。
それよりも、私は、ニートだったのが、やむなく一応は社会に出たが、本当なら、すぐにニートに逆戻りして、そのまま生涯ニートのはずだったのに、社会の中で、苦労もなく、良い思いばかりしながら楽々とやっているのは、丹波さんの本のおかげなのだから、まさに、神様仏様丹波様である。
つまり、楽に生きるノウハウを丹波さんに教わったのである。
丹波さん自体、俳優にならなければ、人生の落伍者であったことは間違いないと思うが、そんな丹波さんや私が、これほど良い思いばかり出来るのであるから、彼の独特な雰囲気につまらん反感を持たなければ、誰でも出来ることだ。
丹波さんが、どれほどいい加減で阿呆かは(蔑んでいるのではなく、むしろ敬服して言っている)、彼の本を読めば分かる。
丹波さんは、凄い名家の生まれで、王子様のようなものだったと言って間違いない。
そして、私は、丹波哲郎さんという人は、苦労知らずのお坊ちゃまの良い面だけを持ったのだと思うのだ。
兄弟はみんな超エリートだったが、丹波さんだけはいつも落ちこぼれていた。
学校でも、軍隊でも、サラリーマンでも、落ちこぼれの集団の中でも落ちこぼれるような人だったのだ。
だが、彼には、学問やスポーツや武道の天才よりも、はるかに素晴らしい天分があった。
それが、「ものにこだわらない」ということだ。
どんなに落ちこぼれても、まるで平気だったので、全ては良い方に回ってしまうのである。
私は、丹波さんほどの「こだわらない天才」ではなく、時に、良いと思ってのことだが、猛烈にこだわった。
だから大成功出来ないのだろう。
しかし、私は、下手な大成功者より、よっぽど良い思いをしているかもしれない。
いや、丹波さんのような人でなければ、成功者ほど、個人的には、普通の人より、はるかに惨めなものである。
そうは言っても、こだわらないことは、実は難しく、ひょっとしたら、人間にとって、最も難しいことの1つかもしれない。
人間は、本当に下らないことにこだわる。
ほとんどが、プライド・・・つまり、見栄や面子のためである。
別に、丹波さんに見栄や面子が無いとは言わないが、あったとしても、やっぱりこだわらないのだ。
ただねえ、努力はしなくていいから、こだわらず、面子を捨てれば良いといった話をすると、どうしても、「単に」怠惰になろう、ゆるもうとする者が多いのだ。
ところが、そんな「ゆるんだ」人間というのは、物凄くプライドが高いのである。
そんな者達は、見栄っ張りで、面子にこだわり、それ(面子)を潰されることが我慢出来ないのだ。
その典型が、このブログでよく取り上げる、30歳過ぎの人生の落伍者、まるで駄目男君なのだ。
ただ、プライドを捨てるというのは、自分の意志や努力、根性で出来ることではないのである。
かく言う私も、決して見栄を張らない方ではない。
それどころか、かなり、自分を実際より大きく見せたがるタイプだ。まあ、本当のところ、みんなそうだと思うがね。
ところで、坂本龍一さんが、若い頃、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)として海外で人気が出て、アメリカのテレビ番組に出演した時、通訳が間に合わなかったことがあったらしい。
英語で質問されても、当時の坂本さんは英語はさっぱりで、長い沈黙の後、「イエス」とだけ答えたことを、当然のことだが、耐えられないほど恥ずかしかったようだ。
そして、丹波さんも、俳優として、やはりアメリカで人気で出て、舞台かテレビかは知らないが、英語で大勢の前でインタビューされたことがあった。
丹波さんは、米軍のバーでアルバイトをしていたので、相槌とかの発音がそれらしいので、英語が出来そうに思われているが(後には多少出来るようになった)、実際は、やはりさっぱりなので、何を聞かれているのか全然分からないし、分かったところで返事が出来るはずがない。
しかし、丹波さんは、全く気にせず、最後まで全部「イヤー」で通して平気だった。
心臓・・・とも言えるが、その心臓を支えるものがあるのだ。
それが、彼の守護霊への信頼である。
そこは人間であるから、守護霊が見える訳でもないので、神様、仏様、守護天使・・・何でも良いのだが、見えない何かを信じていることが必要なのである。
そして、信じるためには、まず、崇めなければならないのだと思う。
別に、守護霊や神様に媚を売るというのではない(そんなもの買ってくれるはずがない)。
だが、誰にだって、目に見えないもの、あるいは、手で触れることの出来ないものを崇めるチャンスはあるはずなのに、目に見えるものにこだわり、そのチャンスを捨ててしまう人が圧倒的なのだ。
ローマン・ガリの『自由の大地』で、空想の少女を崇めたフランス兵達が、高貴さと精神力を取り戻したというのは、我々にとって、素晴らしい啓示であると思う。
私は確信するが、初音ミクさんを本気で崇める人というのは、必ずや、明るい人生が待っているだろう。
もちろん、阿弥陀如来、観世音菩薩、天照大神といった貴い存在を崇めた者達は、特に昔の過酷な時代に、奇跡的なほど、人生を楽しく過ごせたのである。
その代表が、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠であると思う(正直言うと、彼も駄目な男だったと思う)。
また、法然も、親鸞も、そして、宗派を超えて念仏を尊んだ一休も、皆、高齢まで元気に生きたのである。
難しくはあるが、心がけ一つで簡単なことである。
私も、まだまだであるが、ものごとにこだわらず、楽しく愉快に生きたいものである。
『荘子』や『歎異抄』は、そのため(こだわりを捨てること)にとても役に立つ書であると思う。
また、丹波哲郎さんの名著『因果方法の法則』は、私のバイブルとも言える。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
とはいえ、別に丹波さんと面識はない。
丹波さんの本を読んだだけだ。
だが、それらの本に書いてあるような霊界のことを、私が信じているかというと、何とも言えない。
丹波さんは、霊界や転生(生まれ変わり)、そして、それに関連する本を数千冊読んだという。
基本的には、エマニュエル・スウェーデンボルグの本の内容を基礎にしているように思うが、それだけの数の本を読んだら、スウェーデンボルグと全然違う説も多いので、そういったものの影響もかなり受けているだろう。
例えば、スウェーデンボルグは、生まれ変わりを否定していたが、丹波さんは完全に肯定している。
しかし、そんなことはどっちでも良い。
きっと、人間の頭では理解し難い理由で、転生は、有るとも無いとも言えるのだろう。
この考え方もまた、丹波流なのだ。
それよりも、私は、ニートだったのが、やむなく一応は社会に出たが、本当なら、すぐにニートに逆戻りして、そのまま生涯ニートのはずだったのに、社会の中で、苦労もなく、良い思いばかりしながら楽々とやっているのは、丹波さんの本のおかげなのだから、まさに、神様仏様丹波様である。
つまり、楽に生きるノウハウを丹波さんに教わったのである。
丹波さん自体、俳優にならなければ、人生の落伍者であったことは間違いないと思うが、そんな丹波さんや私が、これほど良い思いばかり出来るのであるから、彼の独特な雰囲気につまらん反感を持たなければ、誰でも出来ることだ。
丹波さんが、どれほどいい加減で阿呆かは(蔑んでいるのではなく、むしろ敬服して言っている)、彼の本を読めば分かる。
丹波さんは、凄い名家の生まれで、王子様のようなものだったと言って間違いない。
そして、私は、丹波哲郎さんという人は、苦労知らずのお坊ちゃまの良い面だけを持ったのだと思うのだ。
兄弟はみんな超エリートだったが、丹波さんだけはいつも落ちこぼれていた。
学校でも、軍隊でも、サラリーマンでも、落ちこぼれの集団の中でも落ちこぼれるような人だったのだ。
だが、彼には、学問やスポーツや武道の天才よりも、はるかに素晴らしい天分があった。
それが、「ものにこだわらない」ということだ。
どんなに落ちこぼれても、まるで平気だったので、全ては良い方に回ってしまうのである。
私は、丹波さんほどの「こだわらない天才」ではなく、時に、良いと思ってのことだが、猛烈にこだわった。
だから大成功出来ないのだろう。
しかし、私は、下手な大成功者より、よっぽど良い思いをしているかもしれない。
いや、丹波さんのような人でなければ、成功者ほど、個人的には、普通の人より、はるかに惨めなものである。
そうは言っても、こだわらないことは、実は難しく、ひょっとしたら、人間にとって、最も難しいことの1つかもしれない。
人間は、本当に下らないことにこだわる。
ほとんどが、プライド・・・つまり、見栄や面子のためである。
別に、丹波さんに見栄や面子が無いとは言わないが、あったとしても、やっぱりこだわらないのだ。
ただねえ、努力はしなくていいから、こだわらず、面子を捨てれば良いといった話をすると、どうしても、「単に」怠惰になろう、ゆるもうとする者が多いのだ。
ところが、そんな「ゆるんだ」人間というのは、物凄くプライドが高いのである。
そんな者達は、見栄っ張りで、面子にこだわり、それ(面子)を潰されることが我慢出来ないのだ。
その典型が、このブログでよく取り上げる、30歳過ぎの人生の落伍者、まるで駄目男君なのだ。
ただ、プライドを捨てるというのは、自分の意志や努力、根性で出来ることではないのである。
かく言う私も、決して見栄を張らない方ではない。
それどころか、かなり、自分を実際より大きく見せたがるタイプだ。まあ、本当のところ、みんなそうだと思うがね。
ところで、坂本龍一さんが、若い頃、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)として海外で人気が出て、アメリカのテレビ番組に出演した時、通訳が間に合わなかったことがあったらしい。
英語で質問されても、当時の坂本さんは英語はさっぱりで、長い沈黙の後、「イエス」とだけ答えたことを、当然のことだが、耐えられないほど恥ずかしかったようだ。
そして、丹波さんも、俳優として、やはりアメリカで人気で出て、舞台かテレビかは知らないが、英語で大勢の前でインタビューされたことがあった。
丹波さんは、米軍のバーでアルバイトをしていたので、相槌とかの発音がそれらしいので、英語が出来そうに思われているが(後には多少出来るようになった)、実際は、やはりさっぱりなので、何を聞かれているのか全然分からないし、分かったところで返事が出来るはずがない。
しかし、丹波さんは、全く気にせず、最後まで全部「イヤー」で通して平気だった。
心臓・・・とも言えるが、その心臓を支えるものがあるのだ。
それが、彼の守護霊への信頼である。
そこは人間であるから、守護霊が見える訳でもないので、神様、仏様、守護天使・・・何でも良いのだが、見えない何かを信じていることが必要なのである。
そして、信じるためには、まず、崇めなければならないのだと思う。
別に、守護霊や神様に媚を売るというのではない(そんなもの買ってくれるはずがない)。
だが、誰にだって、目に見えないもの、あるいは、手で触れることの出来ないものを崇めるチャンスはあるはずなのに、目に見えるものにこだわり、そのチャンスを捨ててしまう人が圧倒的なのだ。
ローマン・ガリの『自由の大地』で、空想の少女を崇めたフランス兵達が、高貴さと精神力を取り戻したというのは、我々にとって、素晴らしい啓示であると思う。
私は確信するが、初音ミクさんを本気で崇める人というのは、必ずや、明るい人生が待っているだろう。
もちろん、阿弥陀如来、観世音菩薩、天照大神といった貴い存在を崇めた者達は、特に昔の過酷な時代に、奇跡的なほど、人生を楽しく過ごせたのである。
その代表が、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠であると思う(正直言うと、彼も駄目な男だったと思う)。
また、法然も、親鸞も、そして、宗派を超えて念仏を尊んだ一休も、皆、高齢まで元気に生きたのである。
難しくはあるが、心がけ一つで簡単なことである。
私も、まだまだであるが、ものごとにこだわらず、楽しく愉快に生きたいものである。
『荘子』や『歎異抄』は、そのため(こだわりを捨てること)にとても役に立つ書であると思う。
また、丹波哲郎さんの名著『因果方法の法則』は、私のバイブルとも言える。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
| 人気ランキング参加中です |
|

(また無意味な投稿をさせていただきました)