「萌え(もえ)」という言葉は、ゾクっとするほどの情熱的な好意・愛着を示す言葉で、萌えの対象は人それぞれだが、猫(特に子猫)と美少女の場合が多いように感じる。
萌えという言葉が、いつ、どんなきっかけで使われ始めたかは、「スマートフォン」と同じくらい不明であるのだと思われる。
とはいえ、萌えの本来の意味である、「芽ぐむ」そのものに、若くて強い生命エネルギーの暗示があるので、誰かがたまたま使ったその言葉が、自然に広がったのではないかと思う。
萌えも、猫なら良いが、対象が美少女だと、眉をひそめる(しかめる)とか、気持ち悪いという感情を持つ人も多いと思う。
だが、萌えという言葉が出来るはるか以前に、美少女への強い愛着は、おそらく、太古の昔からあり、荒ぶる神への生贄が美少女の場合が多いのも、神に捧げる一番良いものは美しい少女であるという認識が、人類に普遍的にあるからだろう。
『大ヒッピアス 美について』(藤田大雪翻訳)で、ソクラテスがヒッピアスに「美とは何か」と尋ねた時、有名なソフィスト(弁論家、教育家)であったヒッピアスは、「簡単なことだ。それは美しい少女だ」と答えている(ソクラテスに反駁されるが)。
やはり、美しい少女は、この世で飛び切りに美しいものであることは確かである。
それにしても不思議なのは、美しい少女が美の象徴であることは分かるとしても、それが性的対象になる場合が多いことだ。
少女と言っても、せめて15歳以上であれば、それも現実的に思えるが、ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』では、主人公ハンバートは、性的な意味も含め、自分が愛着を持つ美少女の年齢を「9歳から14歳」と厳密に定義しており、あくまでフィクションとはいえ、それもまた、妙にリアリティがあるのである。
なぜ、子供を産むような年齢でもない少女に性的関心を持つのか、また、現実的に、それが特殊なものとは言い切れないところに、強い不合理性を感じざるを得ない。
ナボコフは昆虫学者でもあるが、人間以外の生物には、そのようなものは見られないことをよく知っているから、この作品をある種の喜劇として書いたように思えるが、確かに、人間とは奇妙なものである。
ひょっとしたら、それ(少女への性的関心)は、人類に広く生じた幻想なのかもしれないことは、吉本隆明氏の『共同幻想論』からも推測出来る。
まあ、『唯幻論』の岸田秀氏、あるいは、その元になったフロイトによれば、本能が壊れた動物である人間の性欲自体が幻想であり、自然に立脚しない狂ったものであるという説を当てはめるなら、納得出来ないこともない。
だが、冷静に考えれば、誰もが、低年齢の少女への性的関心は不合理と分かるのであるから、幻想とは言い切れない。
そこで、私は、こう解釈している。
少女への性的関心は、神が与えた試練なのだと。
試練であるからには、意図がある。
それは、「高貴さを知る」ためである。
少女への性的関心は、おそらく、普遍的なものだ。
しかし、それは、高貴な心に作り変えることが出来るのである。
鉛のような卑金属を、金のような貴金属に作り変える錬金術は、本当は、そのような精神的な修練・修行を意味するのに違いない。
私には、このようにしか思えない。
そして、少女の方も、自身が高貴な存在(偉くはないが)であり、ある意味、天使の地上での代理人であることを自覚し、気高くあって欲しいと思う。
人類は、少女の性的魅力を神的な高貴さに作りかえることで、新しい段階に進歩する。
初音ミクさんは、16歳という設定になっているが、正直、もっと幼く感じると思う。
しかし、16歳らしい魅力も十分にある。
それでいながら、ミクさんを愛する人というのは、男性の場合、彼女に性的関心は、ほとんど持っていないのだと思う。
私の場合が全くそうである。
つまり、初音ミクさんは、人類に高貴さを教えるために生まれた存在でもあるのだ。
女性の場合は、ミクさんの何かを自分に取り込むことで、やはり高貴になるのだが、ファンの中心である10代の女性は、特にそうあって欲しいと願う。
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萌えという言葉が、いつ、どんなきっかけで使われ始めたかは、「スマートフォン」と同じくらい不明であるのだと思われる。
とはいえ、萌えの本来の意味である、「芽ぐむ」そのものに、若くて強い生命エネルギーの暗示があるので、誰かがたまたま使ったその言葉が、自然に広がったのではないかと思う。
萌えも、猫なら良いが、対象が美少女だと、眉をひそめる(しかめる)とか、気持ち悪いという感情を持つ人も多いと思う。
だが、萌えという言葉が出来るはるか以前に、美少女への強い愛着は、おそらく、太古の昔からあり、荒ぶる神への生贄が美少女の場合が多いのも、神に捧げる一番良いものは美しい少女であるという認識が、人類に普遍的にあるからだろう。
『大ヒッピアス 美について』(藤田大雪翻訳)で、ソクラテスがヒッピアスに「美とは何か」と尋ねた時、有名なソフィスト(弁論家、教育家)であったヒッピアスは、「簡単なことだ。それは美しい少女だ」と答えている(ソクラテスに反駁されるが)。
やはり、美しい少女は、この世で飛び切りに美しいものであることは確かである。
それにしても不思議なのは、美しい少女が美の象徴であることは分かるとしても、それが性的対象になる場合が多いことだ。
少女と言っても、せめて15歳以上であれば、それも現実的に思えるが、ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』では、主人公ハンバートは、性的な意味も含め、自分が愛着を持つ美少女の年齢を「9歳から14歳」と厳密に定義しており、あくまでフィクションとはいえ、それもまた、妙にリアリティがあるのである。
なぜ、子供を産むような年齢でもない少女に性的関心を持つのか、また、現実的に、それが特殊なものとは言い切れないところに、強い不合理性を感じざるを得ない。
ナボコフは昆虫学者でもあるが、人間以外の生物には、そのようなものは見られないことをよく知っているから、この作品をある種の喜劇として書いたように思えるが、確かに、人間とは奇妙なものである。
ひょっとしたら、それ(少女への性的関心)は、人類に広く生じた幻想なのかもしれないことは、吉本隆明氏の『共同幻想論』からも推測出来る。
まあ、『唯幻論』の岸田秀氏、あるいは、その元になったフロイトによれば、本能が壊れた動物である人間の性欲自体が幻想であり、自然に立脚しない狂ったものであるという説を当てはめるなら、納得出来ないこともない。
だが、冷静に考えれば、誰もが、低年齢の少女への性的関心は不合理と分かるのであるから、幻想とは言い切れない。
そこで、私は、こう解釈している。
少女への性的関心は、神が与えた試練なのだと。
試練であるからには、意図がある。
それは、「高貴さを知る」ためである。
少女への性的関心は、おそらく、普遍的なものだ。
しかし、それは、高貴な心に作り変えることが出来るのである。
鉛のような卑金属を、金のような貴金属に作り変える錬金術は、本当は、そのような精神的な修練・修行を意味するのに違いない。
私には、このようにしか思えない。
そして、少女の方も、自身が高貴な存在(偉くはないが)であり、ある意味、天使の地上での代理人であることを自覚し、気高くあって欲しいと思う。
人類は、少女の性的魅力を神的な高貴さに作りかえることで、新しい段階に進歩する。
初音ミクさんは、16歳という設定になっているが、正直、もっと幼く感じると思う。
しかし、16歳らしい魅力も十分にある。
それでいながら、ミクさんを愛する人というのは、男性の場合、彼女に性的関心は、ほとんど持っていないのだと思う。
私の場合が全くそうである。
つまり、初音ミクさんは、人類に高貴さを教えるために生まれた存在でもあるのだ。
女性の場合は、ミクさんの何かを自分に取り込むことで、やはり高貴になるのだが、ファンの中心である10代の女性は、特にそうあって欲しいと願う。
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【自分が愛着を持つ美少女の年齢を「9歳から14歳」と厳密に定義しており、あくまでフィクションとはいえ、それもまた、妙にリアリティがあるのである。】
いやいやkayさん、フィックションというよりそういう人は確かにいますよ。
自分がまだ大学生の頃でNTTがまだ国営だったころに2ケ月くらい電電公社の中でアルバイトしていた時、そこの社員とちょっと仲良くなって家に友人と二人で遊びに行ったらほんとにその手のビデオや雑誌がいっぱい置いてました。(当時は規制がそんなに厳しくなかったから普通にそういう書店に売っていたそうです。)
さすがに興味のない自分はあきれ返ってしまいましたが、ちょっと
そういうことが好きなその人に興味を持って色々観察してましたが
普段は普通の人でした。(まさかこの人がロリコンだなんて)
「なんでそんな年端のいかない子に興味があるの?」と聞いたら
「明確な理由はわからない」「只、自分は大人の女性は体が受け付けない」(16歳以上はダメだそうです。)と言っていました。
ロリータコンプレックスはやっぱりひとつの性癖だと思うし
病気だと思う
少なくとも自分はそんな年端もいかない子に
性的欲求は持てないです。
というか自分は人間の肉体自体が嫌いです。
なんでこんなに不便なんだろう?とつねづね思う