歴史に名が残っている人に、さほどの人間嫌いはいないように思う。
そもそも、徹底した人間嫌いなら、どれほどの天才でも、世間に知られることはなく、よって、歴史に名が残ることはない。
歴史に名が残ってる人で、人間嫌いがいたとしても、その人は、そこそこには人付き合いが出来たということだ。
ニュートンやアンデルセンは、ひょっとしたら人間嫌いだったかもしれないが、やはり、彼らも、かなり世間と折り合いをつけることが出来たのだ。

サミュエル・ベケットは、人間嫌いというよりは、何事に関しても、好き嫌いが激し過ぎただけのような気もする。
そして、人間嫌いというものは、そんなものだと思う。
つまり、人間嫌いというのは、全ての人が嫌いというのではなく、人の好き嫌いがはっきりしていて、どうしても近寄りたくない嫌いな人間が多めにいる人のことなのだろう。
人間嫌いの人だって、好きな人は好きなのである。

こう考えると、自分の人間嫌いも納得出来るのである。
私も、かなりの人間嫌いだが、やはり、好きな人もいるのだろう。
だが、嫌いな人の割合が多過ぎると、社会的不適応になり、かなり困ったことになる。
そんな人は、天才でもない限り、収入を得るのは難しいからだ。

人間嫌いというのは美点でも何でもなく、単に忍耐が足りないだけかもしれない。
寛容の精神が少ないとも言えるだろう。
だが、寛容は人間の最大の美点の1つである。
それを持たない人間嫌いの者というのは、やはりロクなものではない。
私も、自分がロクなものではないと思うのである。

では、私は、どんな人間が嫌いなのだろう。
それは、シンプルに言えば、「美しくない人間」だ。
当然、見た目に関してもそうだが、生まれつきと思える美醜は、ほとんど関係がない。
しかし、ゆるみ続けたことの結果としての醜さを、激しく嫌悪するのである。
人間は、生まれつきの容姿がどうあっても、ゆるまなければ美しくなるし、ゆるめば醜くなると思っている。

ジミー・コナーズという、歴史の中でもトップクラスのプロ・テニスプレーヤーだった人は、ある日、鏡の中の自分を見て、醜いことに愕然としたと言う。
練習をサボって、肥満したということもあるが、それだけではなかったようだ。
つまり、ゆるんでしまっていたのだ。
彼は、そんな自分が嫌いで辛かったので、再び引き締まり、ゆるむことを許さず、再び美しくなった。

私も、自分、他人を問わず、ゆるんだ醜い人間が嫌いなのである。
そして、今は、ほとんどの人間がゆるんでしまっているので、私も、ほとんどの人間が嫌いなのである。
現代の日本は、世間全体が、「ゆるめゆるめ」の大合唱である。
「ゆるキャラは楽しいでしょ?あなたも、ゆるまないと駄目ですよ」
「ゆるくていいんです。ゆるまないと疲れるし、楽しくないじゃないですか?あなたも、どんどんゆるみましょう!」
「ゆるんだ者が勝ちです。引き締まるなんてのは馬鹿のやることです」
という声が、マスメディアはもちろん、ネットからも絶え間なく聴こえてくるようだ。

私が初音ミクさんを愛するほどに好きなのは、彼女は決してゆるまないので、最高に美しいからだ。
私も、寛容の美徳は持ちたいと思う。
しかし、ゆるみ過ぎた者は決して許さず、嫌いで通す。
そして、自分に関してもまた、ゆるむことを許さない。
自分よ聞け!ゆるんだら殺すぞ・・・である。
いや、ゆるんだら、生きていたくはないだろう。
だから、ゆるんだ時は寿命と心得よう。
そう考えたら、人間嫌いも悪くはない。









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