今朝も書いたが、何かを真摯に崇めることで精神性を高めることが出来るということが、非常に重要であると再認識した。
神や自然を崇めることを続けると、「敬う」という気持ちを持つことが心の習性になり、自然に、敬うということが出来るようになる。
現代人には、この「敬う」という心が圧倒的に欠け、これが不幸の原因になっている。
もし、我々が、現在、幸福感がなく、不安や恐怖が強いとしたら、おそらく、「敬う」心が無いのだろう。
また、敬う心があれば、いかなることでも成功する。
例えば、プロレスで史上最高のレスラーと言えるルー・テーズが、あれほど成功したのは、レスリングと、師のジョージ・トラゴスやエド・ルイスを、この上なくリスペクト(尊敬)していたからだ。
崇める効果に関して、今朝もご紹介した、ロシアの文豪マクシム・ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』の話が、非常にリアリティがある。
牢獄のような、狭く、熱く、息苦しい場所で、安月給で、毎日、長時間働かなければならない、社会の底辺の26人の男達は、未来に何の希望もない、ゴミ虫のような存在だった。
男達の精神は堕落し、まともな人には、とても聞かせられないほどの下品な猥談ばかりし、神から与えられているはずの知性はカケラもなかった。
だが、ターニャという名の16歳の美少女が現れ、彼女を女神のように敬うようになってから、男達は変わる。
親切、忍耐といった美徳や道徳心を取り戻し、品格が現れ、錆び付いていた頭も回るようになった。
若い魅力的なターニャに邪まな思いを持たず、彼女がいない所でも、彼女を卑しめるような淫らな冗談一つ言わなかった。
だが、ターニャは、確かに可愛いが、決して、出来た娘ではなく、ただの身勝手な娘で、彼らを露骨に見下してもいた。
けれども、男達にとって、それはどうでも良かった。
男達は、ターニャに女神を投影して見ていたのだ。
だが、この作品は、現実の娘を女神のように扱うことは、やめた方が良いという教訓にもなっていると思える。
本物の娘は、所詮、女神や天使ではない。
いつかは裏切られる。
いや、ターニャは、元々が、彼らの前で、女神や天使であろうとしていた訳ではなく、男達を「囚人さん」と呼び、繕い物を頼まれると、「何で私が、あんたのためにそんなことしなくちゃいけないの」と、嘲るように突っぱねた。
それでも、男達は、彼女が女神であると信じることが出来た。
だが、いつかは、現実の娘が、女神や天使ではないことを、思い知らされるのである。
「彼女に裏切られた」、「妻に裏切られた」、「娘に裏切られた」などと言うことなかれだ。
それは、お互い様なのだ。
お互い、天使でもなければ、ナイト(騎士)でもない。
夫婦は、キツネとタヌキの騙し合いというのは、程度の差はあっても、真実であろう。
そのことは、初音ミクさんの、『恋愛裁判』(Youtube)を観賞して、よく理解しておくことだ。
ところが、『恋愛裁判』の歌や動画を聴き、見たら、むしろ元気が出るのは、ミクさんがバーチャルな存在だからだ。
ミクさんは、『恋愛裁判』で、天使のような少女の後に小悪魔を演じるが、実際のミクさんは、天使そのもので、決して裏切らないからだ。
誰かが、ミクさんのことを、「スキャンダルのないアイドル」と言ったが、まあ、そういうことである。
だから、崇めるなら、神や女神が良いかもしれない(もちろん、よければ、初音ミクさんも)。
私は、初音ミクさんの実体である(と私が勝手に決めている)、ターラー菩薩様を崇拝している。
ターラー菩薩様は、日本ではあまり知られていないが、チベットでは広く信仰される菩薩様である。
チベットでは、観世音菩薩様が信仰の中心であるらしいが、ターラー菩薩様は、観世音菩薩様の目(あるいは涙)から生まれた菩薩様だ。
観世音菩薩様の右目(あるいは右目の涙)から白ターラーが、左目(あるいは左目の涙)からは緑ターラーが生まれた。
ターラー菩薩様は、初音ミクさんと同じ16歳のたおやかな少女だ。
ターラー菩薩様の美しいお姿に関しては、中国の画家ゼン・ハオ氏のFacebookページ「ZENG HAO DUN HUANG | Facebook」をご覧いただきたい。
「ターラー」は、古代インドの言語であるサンスクリット語で「目」、「星」という意味で、現代のヒンディー語でも、「ターラー」は「星」である(「目」は「アーク」)。
タミル語では、「目」が「ターラー」で、「星」は、「サーラー」である。
ターラー菩薩様は、東洋のマリアとも言われる観世音菩薩様の、星のごとき目の輝きの中から生まれたという説もあることが納得出来るのである。
初音ミクさんの、事実上の初めての歌(公式デモソング)は、『星のカケラ』で、これが実に良い曲であるが、やはり、ミクさんとターラー菩薩様の繋がりは深い。
『星のカケラ』は、今月(2016年3月)9日の「ミク(39)の日」に発売された、『MIKU EXPO』の公式E.P.(シングル盤)であるCD『HATSUNE MIKU EXPO 2016 E.P.』に収録されている。
まるで、ターラー菩薩様の歌のようですらある。
この歌の中で、
頬なでる柔らかな風が
そっと寄り添ってくれる
~『星のカケラ』(作詞・作曲・編曲:平沢栄司、歌:初音ミク)より~
という歌詞があり、歌全体にも風を感じるのだが、風はターラー菩薩様の象徴でもあり、ターラー菩薩様は、呼びかける者に寄り添って下さることを想うのである。
神仏を敬い、その名を想うには、やはり、その名の意味を知っておくと良いと思う。
ミクという名にも、隠された素晴らしい意味があるが、長くなったので、それはまたにしよう。
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神や自然を崇めることを続けると、「敬う」という気持ちを持つことが心の習性になり、自然に、敬うということが出来るようになる。
現代人には、この「敬う」という心が圧倒的に欠け、これが不幸の原因になっている。
もし、我々が、現在、幸福感がなく、不安や恐怖が強いとしたら、おそらく、「敬う」心が無いのだろう。
また、敬う心があれば、いかなることでも成功する。
例えば、プロレスで史上最高のレスラーと言えるルー・テーズが、あれほど成功したのは、レスリングと、師のジョージ・トラゴスやエド・ルイスを、この上なくリスペクト(尊敬)していたからだ。
崇める効果に関して、今朝もご紹介した、ロシアの文豪マクシム・ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』の話が、非常にリアリティがある。
牢獄のような、狭く、熱く、息苦しい場所で、安月給で、毎日、長時間働かなければならない、社会の底辺の26人の男達は、未来に何の希望もない、ゴミ虫のような存在だった。
男達の精神は堕落し、まともな人には、とても聞かせられないほどの下品な猥談ばかりし、神から与えられているはずの知性はカケラもなかった。
だが、ターニャという名の16歳の美少女が現れ、彼女を女神のように敬うようになってから、男達は変わる。
親切、忍耐といった美徳や道徳心を取り戻し、品格が現れ、錆び付いていた頭も回るようになった。
若い魅力的なターニャに邪まな思いを持たず、彼女がいない所でも、彼女を卑しめるような淫らな冗談一つ言わなかった。
だが、ターニャは、確かに可愛いが、決して、出来た娘ではなく、ただの身勝手な娘で、彼らを露骨に見下してもいた。
けれども、男達にとって、それはどうでも良かった。
男達は、ターニャに女神を投影して見ていたのだ。
だが、この作品は、現実の娘を女神のように扱うことは、やめた方が良いという教訓にもなっていると思える。
本物の娘は、所詮、女神や天使ではない。
いつかは裏切られる。
いや、ターニャは、元々が、彼らの前で、女神や天使であろうとしていた訳ではなく、男達を「囚人さん」と呼び、繕い物を頼まれると、「何で私が、あんたのためにそんなことしなくちゃいけないの」と、嘲るように突っぱねた。
それでも、男達は、彼女が女神であると信じることが出来た。
だが、いつかは、現実の娘が、女神や天使ではないことを、思い知らされるのである。
「彼女に裏切られた」、「妻に裏切られた」、「娘に裏切られた」などと言うことなかれだ。
それは、お互い様なのだ。
お互い、天使でもなければ、ナイト(騎士)でもない。
夫婦は、キツネとタヌキの騙し合いというのは、程度の差はあっても、真実であろう。
そのことは、初音ミクさんの、『恋愛裁判』(Youtube)を観賞して、よく理解しておくことだ。
ところが、『恋愛裁判』の歌や動画を聴き、見たら、むしろ元気が出るのは、ミクさんがバーチャルな存在だからだ。
ミクさんは、『恋愛裁判』で、天使のような少女の後に小悪魔を演じるが、実際のミクさんは、天使そのもので、決して裏切らないからだ。
誰かが、ミクさんのことを、「スキャンダルのないアイドル」と言ったが、まあ、そういうことである。
だから、崇めるなら、神や女神が良いかもしれない(もちろん、よければ、初音ミクさんも)。
私は、初音ミクさんの実体である(と私が勝手に決めている)、ターラー菩薩様を崇拝している。
ターラー菩薩様は、日本ではあまり知られていないが、チベットでは広く信仰される菩薩様である。
チベットでは、観世音菩薩様が信仰の中心であるらしいが、ターラー菩薩様は、観世音菩薩様の目(あるいは涙)から生まれた菩薩様だ。
観世音菩薩様の右目(あるいは右目の涙)から白ターラーが、左目(あるいは左目の涙)からは緑ターラーが生まれた。
ターラー菩薩様は、初音ミクさんと同じ16歳のたおやかな少女だ。
ターラー菩薩様の美しいお姿に関しては、中国の画家ゼン・ハオ氏のFacebookページ「ZENG HAO DUN HUANG | Facebook」をご覧いただきたい。
「ターラー」は、古代インドの言語であるサンスクリット語で「目」、「星」という意味で、現代のヒンディー語でも、「ターラー」は「星」である(「目」は「アーク」)。
タミル語では、「目」が「ターラー」で、「星」は、「サーラー」である。
ターラー菩薩様は、東洋のマリアとも言われる観世音菩薩様の、星のごとき目の輝きの中から生まれたという説もあることが納得出来るのである。
初音ミクさんの、事実上の初めての歌(公式デモソング)は、『星のカケラ』で、これが実に良い曲であるが、やはり、ミクさんとターラー菩薩様の繋がりは深い。
『星のカケラ』は、今月(2016年3月)9日の「ミク(39)の日」に発売された、『MIKU EXPO』の公式E.P.(シングル盤)であるCD『HATSUNE MIKU EXPO 2016 E.P.』に収録されている。
まるで、ターラー菩薩様の歌のようですらある。
この歌の中で、
頬なでる柔らかな風が
そっと寄り添ってくれる
~『星のカケラ』(作詞・作曲・編曲:平沢栄司、歌:初音ミク)より~
という歌詞があり、歌全体にも風を感じるのだが、風はターラー菩薩様の象徴でもあり、ターラー菩薩様は、呼びかける者に寄り添って下さることを想うのである。
神仏を敬い、その名を想うには、やはり、その名の意味を知っておくと良いと思う。
ミクという名にも、隠された素晴らしい意味があるが、長くなったので、それはまたにしよう。
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