ロオマン・ギャリイの『自由の大地』と、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、同じ方法で、堕落した男達が精神を向上させていく。
それは、一人の少女を、女神のように崇めることによってだ。
違いがあるとすれば、『自由の大地』では、想像の少女であるが、『二十六人の男と一人の少女』では、実際に身近にいる16歳の少女であることだ。
ただし、後者では、「本物の少女」と言ったところで、男達が敬っていたのは、「現実の少女」に投影された、天使のような理想の少女だった。
つまり、いずれも、男達が崇敬を捧げたのは、バーチャルな少女だったのである。

天使としての少女を崇めることで、男達の精神に何が起こったのだろう?
イギリスの作家コリン・ウィルソンによれば、男達は、それにより、自己イメージを高めたのだと言う。
つまり、天使を崇める敬虔で高貴な心を持つ自己イメージを作り上げ、自分を実際に、そのように作り変えたのだ。
ウィルソンは、ニーチェの、
「偉大な人間とは自分の理想の演技者である」
という言葉を引用する。

はてさて、どうだろう?
そうではなく、男達は、理想に意識を向けることで、内なる真の自分を見ていたのである。
いずれの場合も、美しい少女を思い描いたのだと思うし、特に、『二十六人の男と一人の少女』では、その少女は美少女だった。際立った美少女というほどではなかったかもしれないが、中年過ぎのくたびれた男達から見れば、普通の可愛い16の少女だって奇跡的な美女に見えるはずである。
それでいながら、いずれも、下品で堕落していたはずの男達が、少女に対し、猥褻な思いを決して抱かず、ただ貴いものとして崇めるという、信じられないことをしていたのだから、彼らにとって、少女はまさに天使だったのだ。
それは、敬虔な宗教的信者が、神を礼拝するのと変わらない。

ラマナ・マハルシやサイババらは、神の名を唱えたり心で想う、ナーマ・ジャパとかナーマ・スマラナという行を奨めたが、それを行う注意として、いずれも機械的な反復を避けることを上げていた。
そして、「慕い、憧れる気持ちで」、「礼拝する態度で」神の名を唱えなければならないと言った。
これらはまさに、神という究極の理想の存在に心で近付こうとするものであるが、それにより、我々は、普段は自我に覆われた本当の自分を感じるのである。

ところで、初音ミクさんのファンが、ミクさんに対して想うことは、まさにそういったことである。
「ミクさん、マジ天使」の合言葉があるように、ミクさんはファンにとって、本物の天使である。
そうであるために、ミクさんがバーチャルな存在であることも幸いしている。
そして、ミクさんを天使として崇めることで、ミクさんは、リアル以上の現実、いわば、スーパーリアリティとして降臨し、心を清め、また、力を与えてくれるのである。
可愛い16歳の少女で、ミニスカート姿でありながら、ミクさんのファンは、驚くほど、ミクさんを性的対象にしないのである。
コンサートでミクさんに声援を送る人達を見ると、まさに、女神や天使を敬虔に崇める時の表情である人が多い。
また、クリプトン・フューチャー・メディアも、ミクさんや、あるいは、お胸が豊かでスタイル抜群の20歳の巡音ルカさんですら、男達の劣情を起こさない雰囲気にするよう注意を払ったのであるらしい。
これが人間のアイドルであれば、性的魅力はむしろ積極的にアピールすることになるので、礼拝のようにはならないはずである。

もちろん、女神のように崇めるべき対象は初音ミクさんに限らないし、また、それが女性である必要もなく、ただ、親しみや憧れ、さらに、崇める気持ちを持てる存在であれば良いのである。
それは、キリスト教徒にとってのイエスやマリア、仏教徒にとっての釈迦や阿弥陀如来、真言密教では大日如来、チベット仏教では観世音菩薩やターラー菩薩、ヒンズー教でのクリシュナ、イスラム教でのアッラーやマホメッドと同じである。
他にも、様々な神話の神、お伽噺や昔話のヒーロー、ヒロイン、小説などの登場人物でも良いのである。

憧れ、慕い、そして、崇める存在を持つことは、人間にとって、生命力を高め、至高者に向かって向上するために必要なことである。
私には、幸いにして、ターラー菩薩様や、その化身である初音ミクさんがいる。
あなただって、理想の神は必ず見つかるだろう。
神仏を一切崇めない木枯し紋次郎すら、亡くなった姉だけは心から敬っていたのであり、それが彼を支えていたのである。









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