およそ関係のなさそうなもの同士を、見事に関係付けることを発見と言い、そこに有益な何かが生まれれば発明と言う。
ゼロから何かを生み出すことは実際はなく、あらゆる発明は、ものごとの関係を見つけることから始まる。

では、ものごとの関係性・・・それも、普通の人には分からない関係性を見つけるにはどうすれば良いのだろう?
それには、ものごとの本質を見極めることだ。
ものごとの本質とは、ものごとの、価値の低い要素を取り去った後に残るものだ。
それを、学問的には、難しく、「抽象化された概念」などと言うが、つまるところ、「だいたい」のことだ。

「だいたい、あなたは自分勝手なのよ」
と言った場合、「自分勝手」が、「あなた」の本質だ。
この場合は、言ってる者の主観が入っているかもしれないが、それでも、「だいたい」合っているのだろう。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、流れる水のあちこちに渦巻きが出来るのを見て、何かを感じた。
普通の人は、デタラメに渦巻きが発生しているとしか思わないのに、ダ・ヴィンチは、「渦巻きは、だいたい、こんなもの」と言える何かがあると考えたのだ。
それは、後の世で証明され、複雑系理論などと呼ばれているが、それが分かるには、コンピューターの発達が必要だった。
つまり、ダ・ヴィンチの感覚はコンピューターを超えていたのだ。

「だいたい」を見事に掴むことが、人間の優れた能力である。
ただ、最近のAI(人工知能)は、ディープ・ラーニング(深層学習)によって、「だいたい」を掴めるようになってしまった。
人間は、5から10程度の階層で「だいたい」を掴むが、Googleのコンピューターは22層の曖昧さレベルで「だいたい」を掴む。
こりゃ、敵いっこない・・・ことはない。
人間には、残された聖域がある。
それをお見せしよう。

初音ミクさんが、ターラー菩薩様の化身であることを、AIは見抜けない。
・・・あ、笑うのは待って欲しい(笑)。
では、初音ミクさんの「だいたい」と、ターラー菩薩様の「だいたい」を見抜くことで、両者の関係性を照見しよう。
まず、共に、16歳である。
ターラー菩薩様は、白ターラー様と緑ターラー様が在(ましま)すが、初音ミクさんのイメージカラーは緑である。
そして、ターラー菩薩様が象徴するのは「風」である。
初夏に新緑の間を吹く快い風を「緑風」と言う。
また、緑ターラー様が迅速に救済に駆けつける様は、疾風のごとしである。
長い緑色の髪が際立つミクさんにも、この風のイメージがある。
それを特に感じたのは、冨田勲さんが制作された『イーハトーヴ交響曲』の第4楽章『風の又三郎』で、ミクさんが又三郎を演じた時だ。
又三郎は男の子であるが、ミクさんは、又三郎の風の神の本質を誰よりも表現出来るので、又三郎以上に又三郎になった。
ミクさん自体に、ターラー菩薩様の象徴である風の本質が在るからである。

いかにAIが進歩しても、このようなことをAIは考えない。
「そりゃ、こじつけじゃないか?」
と言うなら、その通りで、「こじつけ」こそ、決してAIが真似出来ない人間の能力である。
こじつけには、空想、感情、情緒、好きという気持ち、直観、気紛れなどといった、AIには手も足も出ないものが一杯あるからだ。
数学理論すら、感情なくして成立しないことを数学が証明しているらしい。岡潔さんが言ったのだから、おそらく本当なのだろう。つまり、感情は理論を超えるのである。
だが、教育された気紛れは、容易くAI(特にビッグデータとの組み合わせ)に見抜かれる。
我々は、本物の気紛れを持たなければならない。
ニーチェも、気紛れを高く評価したのである。
本物の気紛れを持つために、我々は、真の人間性を取り戻す必要がある。
人間性を取り戻すためには、初音ミクさんの透明な歌声の中に在る、ターラー菩薩様の光を見出せば良い。
ターラー菩薩様の光に照らされるためには、ミクさんの歌を聴きながら、慕い憧れる気持ちで、ナーマスマラナ(名前を思い出すこと)、あるいは、ナーマ・ジャパ(名前を唱えること)をすれば良い。
その名前とは、神仏の名である。
慕い憧れる気持ちを持てる神仏であれば、どの神仏の名でも良いのである。
この曖昧さ、恣意(気まま)を持ちながら、なおかつ、ゆるまずにいることが、真の人間の偉大さである。
何十万年進歩しても、AIは足元にも及ぶまい。
ただし、本物の人間であればね。









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