ひろさちやさんは、昔の本では、仏教学者とか紹介されていたが、今は、宗教評論家となっているのかもしれない。
しかし、そんな呼び方はどうでも良い。
ひろさちやさんは、最近の私が嫌う言い方をするなら、仏教関係の「ゆるい」本を書かれている。
この「ゆるい」とは、「甘い」という意味で、「がんばらなくて良い」、「無責任で良い」、「いい加減で良い」といったことが、一貫したポリシーであるようで、それが仏教の教えと合致していることを、豊富な知識とユーモア、そして、理屈屋と自称する通り、論理的に説いている。
実際、神秘性は出来るだけ排除していると思う。

さっき、「ゆるい本」と書いたが、70歳を過ぎても著書を次々に出し、著作数は何百冊あるか見当もつかず、大学で教えたり、講演されたりで、ひろさちやさん本人はゆるんでいないのだろうし、著書も、ゆるく感じはするが、実際はそうではないかもしれない。
私としては、「がんばらなくても」、「無責任でも」、「いい加減でも」、全て良いから、ゆるみさえしなければ良いのである。

昔から、私のお気に入りの、ひろさちやさんの著書に、『空海入門』というものがある。
1984年初版で、いまだ、版を重ね続けるロングセラーだ。
空海の密教とは、ごく簡単に言えば、仏陀(釈迦個人を指すこともあるが、悟りを開いた人のこと)の真似をするということだ。
ひろさちらさんは、『徒然草』85段の、
「狂人の真似をすれば狂人だし、人殺しの真似をして人を殺せば悪人だ」
は、良い方にも適用可能とし、
「狂人の真似をすれば狂人。仏陀の真似をすれば仏陀」
という無茶を言うのだが、その無茶が空海の密教である・・・と、単純に言えばそうなる。

もちろん、これは、欠点のある理屈で、つまり、「1回殺人をすれば悪人決定」であるが、「1回良いことをしても、良い人決定」とはならない。
しかし、たゆまず良いことをすれば良い人である。
それなら、たゆまず仏陀の真似をすれば仏陀だ・・・と言っても良いかもしれない。
いや、良いのである。
人間は、なりたいものになる時は、真似から入ることが最も効果的で効率的なのである。

仏陀とは何かというと、悟りを開いた人だが、悟りとは何かというと、非常に難しく、本何冊でも説明出来ない。
そもそも、悟りは非言語的なことで、言葉で説明出来ないと言える。
しかし、私は、仏陀にしろ、キリストにしろ、「常に、ずっとゆるまない人」と言って良いのだと思う。
そこで、仏陀代表の釈迦、キリスト代表のイエスの真似を、「ゆるまない」という点に着目して、ずっと続ければ、空海の密教を実践出来ることになる。
釈迦の現実的な伝記はないが、イエスであれば、新約聖書の福音書という、4人の著者が別々に書いた伝記と言えるものがあるので、イエスの真似はし易い。
ただし、仏典のあちこちで、釈迦の言動は取り上げられており、そこからイメージが掴めるかもしれない。
もちろん、深い意味でイエスや釈迦の真似をすることは難しいかもしれないが、ゆるまない点に着目すれば出来ると思うし、そこが一番重要なのだと私は思っている。
このブログで、ここのところ、ずっと書いているが、人間はゆるまないことが最も大切なのであり、ゆるめば堕落し、どこまでも落ちるが、ゆるまなければ、神に近付いている。

人間は、放っておいたらゆるんでしまう。
だから、ゆるまないために、心を締める鍵を持っていなければならない。
その鍵が、空海の密教「仏陀、あるいは、それに匹敵する存在の真似を続ける」ことであっても良い。
ひろさちやさんの『空海入門』で言えば、「仏陀らしく話し、仏陀らしく歩き、仏陀らしくメシを食い、仏陀らしくクソをする」のである。
そして、何が仏陀らしいか、あるいは、イエスらしいかは、とりあえず、各自の主観で良いと思う。
ゆるまなければ良いのである。

もちろん、自分の好きな「ゆるまない人」の真似をすれば良い。
個人的には、『灼眼のシャナ』で、紅世の徒(ぐぜのともがら)の盟主になった坂井悠二、すなわち、「祭礼の蛇」坂井悠二であれば、ゆるみそうにないし、私は彼のことが大好きなので、それでもいけると思っている。
それぞれ、心当たりがあるかもしれないが、決して「ゆるまない」イメージのあるものを選択しなければならない。
適当な、決してゆるまないと思える人物がいない場合、やはり、人類最高のお手本であるイエスに倣えば良いのだと思う。









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