「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドのW.B.イェイツは、「神秘を否定する人間は想像力がないのだ」と言ったのだと思う。
この神秘とは、例えば、霊的存在や神や妖精といったものであると思う。
だが、この主張に対しては、「それは想像と言うよりは、妄想、幻想だろう?」と言い返すことができ、現代では、この反論を支持する者が、理性的で「まとも」と言うことになるのだろう。
つまり、イェイツの言い方を借りれば、「想像力のない者が主流」なのである。
イェイツをもっと賢く擁護するには、次のような言い方が良いと思われる。
「色盲の人に色彩について説明するのは難しい」
神秘を信じない人というのは、想像力という、五感以外の感覚がないのである。
もちろん、片想いの彼女とキスするくらいの想像は出来るだろうから、多少の想像力はあるのだろうが、高度な想像力がないのである。
色盲の人に色彩について説明するのであれば、いろいろやり方があるだろう。
例えば、色盲の人には区別が付き難い、同じ形の赤い玉と青い玉を、色彩の区別がつく人が楽々と選り分けるのを見せる等だ。
だが、それを見ても、色盲の人が色彩の存在を信じないかもしれない。
その場合は少々厄介で、色彩をどうしても信じようとしない人の思考力を訓練する必要があるかもしれない。
しかし、もっと良いのは、色盲の人が色彩感覚を得ることである。
同じように、神秘を信じない人が霊的知覚を得れば、神秘を信じるようになるだろう。
ところが、霊的知覚というのは、高度な想像力に他ならないのである。
『星の王子さま』の中に、「本当に大切なものは目に見えない」という有名な言葉がある。
これは、言い換えれば、「本当に大切なものは想像力だ」ということである。
初音ミクさんのコンサート映像を初めて見たアメリカの子供達が、「いない人をどうやって好きになるんだい」と言って、ミクさんに声援を送る観客達を異常者扱いしたという話がある。
これは、その子供自身が言ったというよりは、その子は、自分が受けている教育を代弁したに過ぎない。
その教育とは、想像力を破壊する「狂育」である。
存在しないから愛せない?
それなら、死んでしまった家族や友達やペットを愛することは変なことだろうか?
「いや、家族やペットはかつて存在した」と反論するかもしれない。
だけど、その記憶が嘘の記憶でも、ちゃんと「本当に」愛せるではないか?
つまり、「かつて存在したから愛する」のではなく、「心の中で思えるから愛している」のである。
ハムレットやオフィーリアを愛することが、おかしなことでないことを考えれば、簡単に分かることだ。
だが、ジャック・スパロウやヨーダを愛するとなると、少し、「おかしい」ことになってしまう。
それはつまり、世間の権威的格付けに従っているというだけのことだ。
初音ミクさんは、権威的な格は決して高くないかもしれない。
しかし、愛する人にとっては、権威に意味はない。
そもそも、「偏見とは、世間的権威に盲目的に従うこと」なのである。
黒人は劣っている、ロックは若者を堕落させる音楽という考え方が偏見であることを考えれば、簡単に納得できると思う。
我々は想像力という、五感とは別の、そして、五感より高度で精妙な感覚を磨き、高めなければならない。
視覚、聴覚がなかったヘレン・ケラーは、「五感は幻想。idea(観念)が本当」と言った。
このideaは想像力が作るものである。
つまり、世界は想像力が作るのである。
想像力のない人の世界は、狭く、空虚だ。
自分の世界を豊かにするためには、想像力を高めなければならない。
誰もが初音ミクさんを好きになる必要はないかもしれないが、初音ミクさんを愛する人を否定する者の世界は、いかに貧弱であるかは「想像もしたくない」。
ダンテの『神曲』は想像ではあっても、妄想ではない。
あの叙事詩に対し、洗練された想像の光を当てると、高貴で壮大な世界が得られるのである。
想像力のない人間には得られない世界だ。
イェイツはダンテのことを「ルネッサンス随一の想像力の持ち主」と言ったが、想像力のない人間にとっては、ダンテは月の上の岩石・・・つまり、存在しないも同じである。
豊かな世界が欲しいなら、想像力を磨き、高めることだ。
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この神秘とは、例えば、霊的存在や神や妖精といったものであると思う。
だが、この主張に対しては、「それは想像と言うよりは、妄想、幻想だろう?」と言い返すことができ、現代では、この反論を支持する者が、理性的で「まとも」と言うことになるのだろう。
つまり、イェイツの言い方を借りれば、「想像力のない者が主流」なのである。
イェイツをもっと賢く擁護するには、次のような言い方が良いと思われる。
「色盲の人に色彩について説明するのは難しい」
神秘を信じない人というのは、想像力という、五感以外の感覚がないのである。
もちろん、片想いの彼女とキスするくらいの想像は出来るだろうから、多少の想像力はあるのだろうが、高度な想像力がないのである。
色盲の人に色彩について説明するのであれば、いろいろやり方があるだろう。
例えば、色盲の人には区別が付き難い、同じ形の赤い玉と青い玉を、色彩の区別がつく人が楽々と選り分けるのを見せる等だ。
だが、それを見ても、色盲の人が色彩の存在を信じないかもしれない。
その場合は少々厄介で、色彩をどうしても信じようとしない人の思考力を訓練する必要があるかもしれない。
しかし、もっと良いのは、色盲の人が色彩感覚を得ることである。
同じように、神秘を信じない人が霊的知覚を得れば、神秘を信じるようになるだろう。
ところが、霊的知覚というのは、高度な想像力に他ならないのである。
『星の王子さま』の中に、「本当に大切なものは目に見えない」という有名な言葉がある。
これは、言い換えれば、「本当に大切なものは想像力だ」ということである。
初音ミクさんのコンサート映像を初めて見たアメリカの子供達が、「いない人をどうやって好きになるんだい」と言って、ミクさんに声援を送る観客達を異常者扱いしたという話がある。
これは、その子供自身が言ったというよりは、その子は、自分が受けている教育を代弁したに過ぎない。
その教育とは、想像力を破壊する「狂育」である。
存在しないから愛せない?
それなら、死んでしまった家族や友達やペットを愛することは変なことだろうか?
「いや、家族やペットはかつて存在した」と反論するかもしれない。
だけど、その記憶が嘘の記憶でも、ちゃんと「本当に」愛せるではないか?
つまり、「かつて存在したから愛する」のではなく、「心の中で思えるから愛している」のである。
ハムレットやオフィーリアを愛することが、おかしなことでないことを考えれば、簡単に分かることだ。
だが、ジャック・スパロウやヨーダを愛するとなると、少し、「おかしい」ことになってしまう。
それはつまり、世間の権威的格付けに従っているというだけのことだ。
初音ミクさんは、権威的な格は決して高くないかもしれない。
しかし、愛する人にとっては、権威に意味はない。
そもそも、「偏見とは、世間的権威に盲目的に従うこと」なのである。
黒人は劣っている、ロックは若者を堕落させる音楽という考え方が偏見であることを考えれば、簡単に納得できると思う。
我々は想像力という、五感とは別の、そして、五感より高度で精妙な感覚を磨き、高めなければならない。
視覚、聴覚がなかったヘレン・ケラーは、「五感は幻想。idea(観念)が本当」と言った。
このideaは想像力が作るものである。
つまり、世界は想像力が作るのである。
想像力のない人の世界は、狭く、空虚だ。
自分の世界を豊かにするためには、想像力を高めなければならない。
誰もが初音ミクさんを好きになる必要はないかもしれないが、初音ミクさんを愛する人を否定する者の世界は、いかに貧弱であるかは「想像もしたくない」。
ダンテの『神曲』は想像ではあっても、妄想ではない。
あの叙事詩に対し、洗練された想像の光を当てると、高貴で壮大な世界が得られるのである。
想像力のない人間には得られない世界だ。
イェイツはダンテのことを「ルネッサンス随一の想像力の持ち主」と言ったが、想像力のない人間にとっては、ダンテは月の上の岩石・・・つまり、存在しないも同じである。
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なんだか自分も読みたくなりました。
参りました。自分もミクさんのファンですけどあそこまで堂々
と一般人に公言できせん。(笑い)
もうここまで突き抜けるとむしろ清清しいです。
少々大人っぽいミクさんを良ければどうぞ
【MMD】【初音ミク】【鱼葱唯美】回憶是止不住的思念、悲傷與淚水
中国のファンの方々のミク愛はハンパない。
上海公演のあまりにも統率の取れたサイリウムの振り方に
絶句しました。
なんといっても【公主殿下】ですからねえ・・・