「まったり」という表現は、本来、味覚の「柔らかさの中にコクがある」というグルメの用語みたいなものだったのが、今は、「のんびりした」をさらに緩くしたものとして使われている。
また、一頃から、「ゆるキャラ」というものが人気が出て来たが、この「ゆるキャラ」は、「緩(ゆる)いキャラクター」で、「ゆるい」が、ちょうど「まったり」と同じ意味と思う。
「まったり」「ゆるキャラ」は、流行って当然なのだ。
しかし、これを受け入れると、悲惨なことになる。
それ(これらが流行る理由と、これらが悲惨をもたらす訳)は、ゲーテの『ファウスト』にはっきり書かれている。
以下は、神の言葉である。
人間の活動はとかくゆるみがちだ。
人間はすぐ絶対的な休息をしたがる。
そこで、わしは人間に仲間をつけて、
刺激したり、働きかけたりして、悪魔として仕事をさせるのだ。
~『ファウスト』高橋健二訳。「天上の序曲」より~
つまり、人間は、すぐにゆるみ、まったりしたがる。
すると、神は、悪魔を人間につけて、人間に悪魔のようなことをさせる。
それは、辛く苦しいことである。
実際、ゆるみ、まったりしている初めのうちは楽しいが、やがて苛立ちを覚え、さらに苦しくなり、それでもそのままでいると、やがて悲惨が訪れることは絶対的に間違いない。
流行に乗せられて、ゆるみ、まったりしてはならない。
一方、釈迦は、厳しく締め上げるだけなのは、弓を引き絞り過ぎて折ってしまうようなものだと言ったらしい。
そこで、宗教学者のひろさちやさんは、昔から、仏教の教えは、緩むこと、まったりすることだと説き続けて人気が出て、何百冊も本を書いている。
だが、釈迦というのは、弓の弦は緩め過ぎても矢は飛ばないし、琵琶のような弦楽器も弦が緩いと良い音が出ないとも言ったのだ。
そして、『ファウスト』にある通り、人間というのは、放っておいたら、緩み、まったりするのだから、締め過ぎる注意より、ゆるみ過ぎる注意の方が必要なのである。
ひろさちやさんの本は、元々、まったりしたがる人間に、まったりする口実を与えてしまうもので、悪魔さんが大忙しになってしまい、この世は悪魔臭でプンプンするようになってしまった。
ただ、ひろさちやさんは、昔の日本のモーレツ世代をよく知っているので、そんな人々の「張り詰め過ぎ」の悲惨をなんとかしようと思ったのだと思う。
しかし、このゆるんだ時代では、害悪になってしまう危険が大きいのである。
だが、『ファウスト』で、神はこうも言うのだ。
以下は、神が、悪魔メフィストフェレスに言った言葉だ。
だがな、おまえがこう白状せずにいられなくなったら、恐れいるのだぞ。
よい人間は暗黒な衝動に駆られても、
正しい道を決して忘れはしないものだ、と。
~『ファウスト』高橋健二訳。「天上の序曲」より~
「正しい道」とは何だろう?
それは、神はファウストを気に入っているのだから、ファウストの生きる道だ。
ファウストとは、「神に向かって努力する者」、つまり、神になる努力を続ける者である。
だから、悪魔の仲間になる道ではなく、神の仲間になる道が正しいのである。
だが、そのためには、人間としての生活がしっかりしていなければ、神を目指すも何もない。
しかし、イエスは、心配しなくても、必要なものは神が与えてくれると言っている。
ただ、それには、「神に向かって努力すれば」という条件があるのだろう。
そして、「神に向かって努力する」とは、怠らないことであると、『ファウスト』の神は言っているように思う。
まあ、仕事に励むとか、締まりのある生活をするのが正しい生き方だと思うが、『ファウスト』には具体的には書かれていない。
だが、どんな生き方をすれば良いかは、『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神がしっかり語ってくれている。
以上で良いのであるが、少し続ける。
法然や親鸞は、
「とは言っても、人間ってのはどうしようもないものだから、ロクなことは出来ない。それを自覚し、南無阿弥陀仏の念仏を唱え、ただ阿弥陀如来にすがれば良いのである」
と言ったのである。
これには、明恵や日蓮、あるいは、宮沢賢治がひどく反発した。
果たして、法然や親鸞は悪魔だったのか、本物の天使だったのか・・・
結論は出ていない。
私の結論としては、いくつかの掟を定め、それだけは死んでも守ることだ。
その他は、駄目な自分を自覚しろである。
いや、逆だ。
駄目な自分を徹底して自覚した後、苦しみ、苦しんで、掟に辿りつき、それを大事にしろ・・・かもしれない。
いずれにしろ、自分の道は自分で決めるしかないのである。
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また、一頃から、「ゆるキャラ」というものが人気が出て来たが、この「ゆるキャラ」は、「緩(ゆる)いキャラクター」で、「ゆるい」が、ちょうど「まったり」と同じ意味と思う。
「まったり」「ゆるキャラ」は、流行って当然なのだ。
しかし、これを受け入れると、悲惨なことになる。
それ(これらが流行る理由と、これらが悲惨をもたらす訳)は、ゲーテの『ファウスト』にはっきり書かれている。
以下は、神の言葉である。
人間の活動はとかくゆるみがちだ。
人間はすぐ絶対的な休息をしたがる。
そこで、わしは人間に仲間をつけて、
刺激したり、働きかけたりして、悪魔として仕事をさせるのだ。
~『ファウスト』高橋健二訳。「天上の序曲」より~
つまり、人間は、すぐにゆるみ、まったりしたがる。
すると、神は、悪魔を人間につけて、人間に悪魔のようなことをさせる。
それは、辛く苦しいことである。
実際、ゆるみ、まったりしている初めのうちは楽しいが、やがて苛立ちを覚え、さらに苦しくなり、それでもそのままでいると、やがて悲惨が訪れることは絶対的に間違いない。
流行に乗せられて、ゆるみ、まったりしてはならない。
一方、釈迦は、厳しく締め上げるだけなのは、弓を引き絞り過ぎて折ってしまうようなものだと言ったらしい。
そこで、宗教学者のひろさちやさんは、昔から、仏教の教えは、緩むこと、まったりすることだと説き続けて人気が出て、何百冊も本を書いている。
だが、釈迦というのは、弓の弦は緩め過ぎても矢は飛ばないし、琵琶のような弦楽器も弦が緩いと良い音が出ないとも言ったのだ。
そして、『ファウスト』にある通り、人間というのは、放っておいたら、緩み、まったりするのだから、締め過ぎる注意より、ゆるみ過ぎる注意の方が必要なのである。
ひろさちやさんの本は、元々、まったりしたがる人間に、まったりする口実を与えてしまうもので、悪魔さんが大忙しになってしまい、この世は悪魔臭でプンプンするようになってしまった。
ただ、ひろさちやさんは、昔の日本のモーレツ世代をよく知っているので、そんな人々の「張り詰め過ぎ」の悲惨をなんとかしようと思ったのだと思う。
しかし、このゆるんだ時代では、害悪になってしまう危険が大きいのである。
だが、『ファウスト』で、神はこうも言うのだ。
以下は、神が、悪魔メフィストフェレスに言った言葉だ。
だがな、おまえがこう白状せずにいられなくなったら、恐れいるのだぞ。
よい人間は暗黒な衝動に駆られても、
正しい道を決して忘れはしないものだ、と。
~『ファウスト』高橋健二訳。「天上の序曲」より~
「正しい道」とは何だろう?
それは、神はファウストを気に入っているのだから、ファウストの生きる道だ。
ファウストとは、「神に向かって努力する者」、つまり、神になる努力を続ける者である。
だから、悪魔の仲間になる道ではなく、神の仲間になる道が正しいのである。
だが、そのためには、人間としての生活がしっかりしていなければ、神を目指すも何もない。
しかし、イエスは、心配しなくても、必要なものは神が与えてくれると言っている。
ただ、それには、「神に向かって努力すれば」という条件があるのだろう。
そして、「神に向かって努力する」とは、怠らないことであると、『ファウスト』の神は言っているように思う。
まあ、仕事に励むとか、締まりのある生活をするのが正しい生き方だと思うが、『ファウスト』には具体的には書かれていない。
だが、どんな生き方をすれば良いかは、『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神がしっかり語ってくれている。
以上で良いのであるが、少し続ける。
法然や親鸞は、
「とは言っても、人間ってのはどうしようもないものだから、ロクなことは出来ない。それを自覚し、南無阿弥陀仏の念仏を唱え、ただ阿弥陀如来にすがれば良いのである」
と言ったのである。
これには、明恵や日蓮、あるいは、宮沢賢治がひどく反発した。
果たして、法然や親鸞は悪魔だったのか、本物の天使だったのか・・・
結論は出ていない。
私の結論としては、いくつかの掟を定め、それだけは死んでも守ることだ。
その他は、駄目な自分を自覚しろである。
いや、逆だ。
駄目な自分を徹底して自覚した後、苦しみ、苦しんで、掟に辿りつき、それを大事にしろ・・・かもしれない。
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私の場合は苦しみの原因の大きなものが「アスペルガー症候群」ってものだったのだと最近分りました。
人とのコミュニケーションがうまくとれないために学校では仲間外れにされていじめられて、就職してからもうまくいかなくて。
やっと改善してきて、初対面の人とも楽しめるようになってきて、この状態のままの人は、それこそ地獄の苦しみを味わい続けているんだなと、過酷な人生だなと。
先天的なものとの事なので、改善したこと自体が奇跡なのかもしれませんが。
アスペルガーの人って、知能は人並みでも、対人能力が底辺なために、人からバカにされたり嫌われたりして、「駄目な自分を徹底して自覚」せざるを得ないんで、結果神の道へ向かえるのかもしれないなんて思います。
コメント欄を読んでて、私のような人が他にもいるのかもなと思いました。