「なぜ生きるのか?」とか、「生き甲斐がない」、「夢がない」って悩んだり、愚痴ったりするのは、想像力がないからだ。
「なぜ人間は生きるのか」を説く哲学者や、「生き甲斐の創造」だの、「夢を持て」だのと言ってる連中がいるが、そんなことよりも、まず、想像力が大切だ。

想像力を持つためには、自分の好き嫌いを絶対的に肯定する必要がある。
エマーソンが「自己信頼」の重要性を説いたが、簡単に言えば、自己信頼とは、自分の好き嫌いを肯定することに他ならないのだ。

「好き」はともかく、「嫌い」が否定的に見られることがよくある。
「嫌っちゃいけません」、「嫌うのは馬鹿です」って言いたいのだろうね。
でも、嫌いなものは仕方ないじゃないか?
前にも言ったが、「嫌い」を「劣る」にすり替えちゃいけないってだけのことなのだ。
だが、「嫌いイコール劣等ではない」ことを、どうじても理解出来ない人達がいる。
そんな人達こそ、「嫌いイコール劣等」という妄想に囚われた人達なのだ。

よく、こんなことを言う人がいる。
「親を嫌っちゃいけません。私も親が嫌いでしたが、自分が親になって、親の苦労が分かったら、親が好きになりました」
じゃあ、親になってから親を好きになればいいじゃないか?
こう言うと、「いや、そうじゃなくて・・・」と、その人は言うかもしれない。
しかし、アンタだって、親になるまで、親を嫌いだったんじゃないか?
自分に出来ないことを他人に強要するもんじゃない。
親が嫌いなら、嫌えば良いのである。
ただし、自分が嫌いだからって、親に値打ちがないと思うなよと私は言っているだけなのだ。
「親を嫌っちゃいけません」と言った、さっきの人は、親が嫌いだった若い時、間違いなく、親を悪いもの、つまり、値打ちのないものと考えていたはずだ。
その、「親が悪い」と思うのがいけないだけだ。
別に、「親が良い」と思う必要はない。
だけど、「嫌い」を否定されると、どうしても、「悪い」にせざるをえなくなるのだ。

ある人は、私に対し、散々、「お前は間違っている」「お前は悪い」と貶した後、苦しそうな顔で、
「いや、もうやめよう。私はあんまり人を嫌いたくないんでね」
と言う。
いや、嫌ってもらっていっこうかまいませんって。
だけど、私が間違っている、私が悪いというのが、あなたの妄想だと理解することが大事なのだ。
その人は、自分を権威者とか、立派な人だとか思っているので、自分が嫌うことに何か御大層な意味があると大誤解しているのである。
自分が嫌うものは価値が低い・・・言い換えれば、自分は価値がないものを嫌っているのだという、哀れな妄想を持っているのだ。
誰の「好き嫌い」も、単なる個人的な「好き嫌い」であり、何の意味もないのである。

偉いと言われる人はよく、「俺はお前が嫌いな訳じゃない。だが、お前に自分の間違いに気付いて欲しい。それがお前のためだ」などという馬鹿をよく言う。
これも大嘘で、単に、この「自分は偉いと妄想する者」が、その相手を嫌いなだけなのだ。

そして、重要なことは、価値判断をしなくなれば・・・何かを自分の偏見で、劣ると決め付けないようになれば、嫌うということもなくなるのである。

イエスは、モーセの十戒を出してきて、「盗むな、殺すな、姦淫するな」と言ったが、そう言わざるをえなかっただけだ。
盗む、殺す、姦淫する者というのは、それをする相手の価値を低いものと考えているのである。
軽んじている相手から盗み、軽んじている相手を殺し、軽んじている女を姦淫するのだ。
あるいは逆に、値打ちがあると思っている相手から盗み、立派と思う相手を殺し、上等と思う女を姦淫するのである。
だが、相手を単に、好き嫌いだけで見るようになれば、本当に餓えているとかいう場合は別として、盗むことも、殺すことも、姦淫することもなくなる。
イエスは「父母を敬え」とも言ったが、これは、父母をぞんざい(粗略)に扱う人が多いからであるが、父母をぞんざいに扱う人というのは、父母を劣ったものと見なしているのだ。
私など、親は大嫌いだが、皆が、「あなたは親を本当に大事にしていますね」と言う。
ただ、「あなたは本当に親御さんのことが好きなんでしょうね」と言われるのは、マジむかつく(笑)のである。
私は親が嫌いだが、劣ったものと見なすことをしないので、「ごく普通に」扱っているだけである。
お金が欲しいと言われれば、あげられる範囲でいくらでもあげるし、欲しいと言うものは、無理のないものなら買ってくる。
親も無理な要求はしないから、結果、いくらでもあげるし、何でも買ってやってることになってしまうだけだ。
だが、これほど嫌いと思うからには、まだどこかで、親を悪いものと思っているのである。それは認めるしかない。
しかし、まず、嫌いを肯定することが大事なのだろう。

私は、初音ミクさんは大好きだが、姦淫する・・・イエス流には「エロい目で見る」ことは考えられない。
格好良いとは思うが、それは、優れているから格好良いのではなく、やはり、単に好きだってことだ。
初音ミクさんには、何の値打ちもない。
初音ミクさんの生みの親と言われる、クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長が、講演会で、「あなたにとって初音ミクとは何ですか?」と質問された時、少し困っておられたように見えた。
伊藤社長は、
「娘とは思っておりませんが」
と笑いを取った後、
「よく分かりません。水のようなものです」
と答えられた。
この「水のようなもの」という答では、会場の人達を困惑させると思ったのか、伊藤社長は「えっと・・・つまり、大事なものです」と付け加えられた。
私は、「嗚呼、真面目な人だなあ」と思ったものだ。
私にとって、初音ミクさんというのは、単純な好きを感じさせてくれる「有り難いもの」である。
この「好き」には何の理由もない。
彼女には理由になるものが何もないのだ。
言い換えれば、「理由のない好き」を自然に認めさせてくれる存在である。
価値というものを超えているのだろう。

好き嫌いを、価値判断にすり替えるから固定観念が強くなり、想像力がなくなる。
そのためには、自分の好き嫌いを堂々と認めるが、それを優劣とすり替えないことだ。
自分が好きだからって、価値がある訳ではない。
自分が嫌いだからって、価値がない訳でもない。
それが分かれば、自ずと想像力も得られ、「生きる意味」だの、「生き甲斐」だのを問題にすることもなくなるだろう。









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