我々一人一人に根深く打ち込まれた、こんな思想がある。
「好き嫌いを言ってはいけません。良いか悪いかを考えなさい」
良いか悪いかは「優劣」と言えるだろう。
だが、人間に分かるのは、好き嫌いだけであり、優劣など決して分からないのだ。

AKB総選挙というものがあるが、あれはもちろん、ファンが「自分が個人的に好きな人」に投票するだけである。
しかし、誰しも、自分が投票する人が「一番優れている」と思っているものだろう。
だが、その考え方で、我々は苦しむのである。
つまり、「好き嫌い」は「優劣」にすり替わり易いのであるが、それが問題なのである。
AKB48やその関連グループの誰が一番優れているかなんて、お釈迦様でも分かるまい。
総選挙で一番になった人は、「最も優れている」のではなく、あくまで、一番投票が多かったというだけで、最も人気が高いとは言えるかもしれないが、優劣ということには何の関係もない。

自分がキリスト教を熱心に信仰しているからといって、キリスト教が仏教やイスラム教やユダヤ教などに優っていると思ってはならない。
単に、自分が好きだから信仰しているだけである。
だが、自分が信仰している宗教が「他の宗教より優れている」と考えると困ったことになる。宗教戦争も、根本的にはそんな理由で起こったのだ。

フィギュアスケートの以前の採点には「芸術的印象点」というものがあり、それが何かはいろいろ難しい説明がされていたが、早い話が、「審判の個人的好き」を表していただけだった。
今は、批判を避けるためか、「芸術的印象点」はなくなったが、実際は、PCS(プレゼンテーション・コンポーネンツ・スコア)とかいった、煙(けむ)に巻くような言葉に替えただけで、実質は変わっていない。
「審判の好き」が「優劣」にすり替えられているのだが、これは、「審判の好きは、一般の人の好きより優れている」という考え方の上に成り立っているのだろう。しかし、審判が変われば採点も変わるものであるから、その考え方も嘘と思って間違いない。
それなら、もうはっきりと、「審判の個人的好き嫌い点」、「審判の個人的相性点」、「審判の個人的趣味点」とでもいった名称に替えれば良い。
実質はその通りなのであるから。

初音ミクさんの国内コンサートでは、2013年から「マジカルミライ」シリーズが始まっている。
2013年は横浜アリーナ。
2014年はインテックス大阪と東京体育館。
2015年は日本武道館で、それぞれ公演が行われた。
考えてみれば、本当に凄い。
2014年の東京体育館のものはメディアが出ていないので私は見ていないが、私は、それ以外の3つの中では、2014年のインテックス大阪のものが一番好きだ。
しかし、それは、「2014年の公演が一番優れている」という理由ではなく、「私は個人的に、2014年の公演が一番好き」というだけの話なのである。
Amazonのレビューを見ると、2014年の公演の評価が最も低いように思う。
それも単に、私とは好き嫌いの基準が違うというだけの話で、「どの公演が優れているか」なんて、絶対に分からないのである。
尚、私は、2014年の大阪公演が特に好きとは言っても、他の2つも極めて好きである。

そもそも、私が初音ミクさんが好きだというのも、別に、初音ミクさんが優れているからではない。
優れているかどうかは、私は知らないし、分からないと思っている。
確かに、「初音ミクさんが素晴らしい」と表現することはあるが、それは、「私は初音ミクさんが大好きだ」という意味である。
一方、私にも、「嫌いな歌手」というものがある。
しかし、私が嫌いな歌手が、初音ミクさんより劣っている訳でも何でもない。

私のような引きこもりは、大抵の人間を嫌いなものである。
私が、ドワンゴの川上量生会長は本当に引きこもりだなあと思ったのは、彼のブログだったと思うが、他人と目が合ったら、「こっち見ないで」と思うといったことが書かれているのを見た時だった。
本当に、その気持ちがよく分かるのである。
「こっち見ないで」と思う理由はいろいろに言えるだろうが、これも、結局は、「私はあんたが嫌いだから、こっち見ないで」ということなのだと思うのだ。
だって、好きな人なら、見てくれたって構わないじゃないか?
とりあえず、私は、ほとんどの人が嫌いだとしておくが、最近までは、私はその理由を、「ほとんどの人は劣悪」・・・、いや、言いたくないが、もっとはっきり言うと、「ほとんどの人は私より劣悪」だからだと思っていた。
しかし、一方で、私は、自分が最も劣悪で、自分のことを、「蔑み疎まれる存在」と定義していた。
大矛盾である。
そして気付いたのだ。
私がほとんどの人が嫌いだというのには、単に個人的に嫌いという以上の意味は0.000001%もないのだ。
つまり、私が嫌いな人が、私より劣っているということは全くないのだと、はっきり分かったのだ。
これに気付いてから、私は、自分の人嫌いについて、あまり苦しまなくなった。
「なあんだ。単に個人的に嫌いだというだけのことか」
と認めれば、それはそれで何の問題もない。
私は、大いに人を嫌おう。
だが、私が嫌いな人が劣悪な訳では全くないのだ。

白人の人種差別にしたって、「人種差別をする白人が個人的に有色人種が嫌い」以外の意味は、絶対にないのである。
人種差別をする人が、それを完全に認めれば、別に、その白人が有色人種が嫌いだというのは、何の問題もない。
個人の好き嫌いは個人の勝手である。
誰が、黒人が嫌いな白人に対し、「黒人を好きになれ」と言えるだろう?
ただ、その白人が「黒人は劣っているから嫌いだ」と言うなら、それは絶対的に間違っているのである。

私は、小学4年生の時、学校で、クラスのマドンナ的存在の美少女と、いわゆるブスと分類されるだろう女の子を見比べ、
「同じ人間の女の子でありながら、どうしてこんなに違うのだろう?」
と本気で悩んだ。
ブスに生まれて来るのは、あまりに理不尽じゃないか?
どうして、こんなことが起こるのだろうと思うと、怒りすら感じた。
だが、実は、この問題の原因は、私が、マドンナ・ガールに対する「好き」を「優れている」にすり替えていたからだった。
実際、人によっては、私がブスと思う方をマドンナと思う人は必ずいる。
こういったことが理解でき、私はやっと、あの時の苦しみから解放されたのである。









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