1970年代以前の映画やテレビドラマでは、インターネットはおろか携帯電話も出てこないので、それらは、若い人にとっては、時代劇のように見えるかもしれない。
そう古い印象はないのだが、立川恵さんの『怪盗セイント・テール』は1994年連載開始の漫画(アニメは1995年放送開始)だが、14歳のヒロイン羽丘芽美が好きな、同級生の男子であるアスカJrが、「俺はポケベルなんてやらないからな」といったセリフを言ったのを覚えており、当時は携帯電話はアナログ式のものが普及し始めた頃で、中高生には贅沢過ぎ、彼らはポケベルを愛用していた。だが、その数年後には、携帯電話が中高生にも普及してくる。
2000年に漫画が連載開始され、2002年にアニメが放送開始されたCLAMPの『ちょびっツ』では、インターネット、パソコン、携帯電話、モバイルといった概念が今日に近い感覚で扱われている。スマートフォンは空想すらされない時代だったが、ヒロインのちぃのような人型パソコン(アンドロイドと同じ)や、そのモバイル版である小型の人型パソコンは、スマートフォンやタブレットPC(あるいはウェアラブルコンピューター)をはるかに超えている。
ちなみに、ちぃは初音ミクさんに通じるところがあることは、海外のミクさんのファンも指摘することがある。
ちぃは身長152cmで、158cmのミクさんよりやや小さいらしいが、雰囲気的には変わらず、また、2人とも超ロングヘアであるところが似ている。
私は、自我を持たない存在としての、ちぃとミクさんの類似性や違いを考えることが面白い。
尚、1950年代に、敬愛すべき関英男博士(電波工学の世界的権威である工学博士で、超能力などの高次元科学研究者。腕振り運動の普及者でもある)は、今日のスマートフォンとよく似たものを想像し、著書にも書かれていた。恐ろしいものである。

パソコン、通信機器、インターネットやその前身のパソコン通信がなかった時代であれば、1970年代も数百年前も、表面的にはそれほど変わらないように感じる。
『無法末の一生』のような明治時代を描いた映画を見ても、学校の運動会の様子など、基本的に今と全く同じで、学校という場所は極端であるが、世の中はそんなには変わらないものだと思う。
しかし、当時は、パソコンどころか、誰もコンピューターというものを想像もしなかった。現代のノイマン式コンピューターの原型であるENIACが作られたのは1946年(昭和21年)である。

人類の思考形態は、コンピューターとネットワークによって変わった部分は確かにあるだろう。
だが、ひょっとしたら、人類の歴史の中で言えば、その変化は「ほんの少し」かもしれないと思う。
人類の世界の認識の仕方の変化を本当に知れば、そんなもの(コンピューターやネットワークによる考え方の変化)は小さなものだと思うのだ。
数千年前に書かれた古典を、物質的な部分に着目して読めば、確かに古いのだが、精神的に考えれば、案外にそんな古典の方が、現代より鋭く深いところが大きいと思う。
そして、精神、あるいは、霊の部分と物質の部分を比べれば、少なくとも、前者が90%以上であり、本当は、99.9%以上なのではないかと思う。
そういったことは、ルドルフ・シュタイナーの著書が参考になると思う。

本当に駄目な人間である、私の職場にいる「まるで駄目男君」が、なぜ、それほど駄目なのか、私は非常に興味深く思い、観察し、研究している。
そして、彼が、古典をほとんど全く読んでいないことに気が付いた。
優れた人間というのは、必ず、古典を熟読していると言って良い。
その理由を考察すれば非常に長くなるので、今回は省くが、事実そうであることは確かである。
無論、古典ばかり読んでいて良い訳ではないが、古典の知恵を取り込んでいない者は、人間として、あるいは、小さな神としての知恵を持っていないのであると思う。









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