他のことは忘れても良いくらい重要なことなので、何度も繰り返し書くが、力を抜くことが、力と幸運の最大の秘訣である。
しかし、ここが日本語のおかしなところだが、力を抜くというのは、脱力とは違うのである。
プロ野球の超一流のピッチャーは、良い投球をした後で、「力を抜いて投げることが出来た」と言うことがよくある。
しかし、脱力したらピッチングそのものが出来ない。
武道の達人が立っている姿、座っている姿、あるいは、静かに礼をする姿がとても感動的なことがあるが、なぜ素晴らしいのかというと、力が抜けているからだが、脱力してだらんとしているのでは勿論ない。
「余分な力が抜けている」と言っても良いが、その余分な力だって無ければピッチングも、礼1つも成り立たない。
力が抜けるとは、力を出す意識がないことだが、それでいて、力が出ているのである。
剣の達人が、しこたま酒を飲んだ後で、刺客に襲われた時、こう言う。
「俺の剣は、酔えば酔うほど鋭さが増すぞ」
強がっているのではない。
本当にそうなのである。
もちろん、酒に強い体質であることも必要だが、チンピラのケンカですら、酔っ払った者が意外に強いことを、経験上、よく知っている者もいるだろう。
合気道の神的な達人、植芝盛平の礼は、一度見たら忘れられないほどの感銘を与えると言われる。
力を抜いた究極である無を見ることが出来るのだろうと思う。
このような人物が、果たして現存するのかどうかは分からないが、近い人なら、どこにでもいると思う。
お坊様が念仏を唱える際、良いお坊様は、大きな響く声で唱えても、よく力が抜けている。
だから、無量寿経(大無量寿経)などの長いお経を唱えても、最後まで疲れていない(むしろ活力が高まる、つまり、元気になっている)。
普通の人が真似したら、最後は声がかすれてしまう。
そして、念仏でも、神道の呪文でも、本当に良い唱え方は、小さな声で唱えることだ。
隣の人にすら、念仏や呪文を唱えていることが分からないくらい、小さな声で唱えるのが良いのだ。
実際には、ほとんど、あるいは、全く声が出ていないかもしれない。
しかし、そのような念仏や呪文が本物であり、力がある。
これは、ユダヤ教やキリスト教、あるいは、イスラム教の祈り言葉でも同じだと思う。
もちろん、僧の修行やお勤めの際、また、一般の人でも習い始めの頃は、大きな声を出す練習も必要だが、念仏、呪文、祈りそのものは、小さな声でやるのが良い。
そして、小さな声で念仏や呪文を唱えることを覚えないままでいてはいけない。
この小さな、微かな声の念仏や呪文が、力が抜けた念仏や呪文、あるいは、「極小にして極大」の念仏や呪文につながるのであり、神仏の加護を得、いかなる願いも叶えるものである。
偉大な神道家だった黒住宗忠は、常に下腹に力を込めていたし、岡田式静坐法の岡田虎二郎は、常に腹に力を入れていなければならないと言っていた。
そして、ヨーガの中村天風は、いつも肛門を引き締めていろと言った。
だが、これらの力とは、うんうん唸りながら、万力を込めるというものではない。
そんなことが出来るはずがない。
腹に入れる力、肛門を締める力とは、極小の力であり、それが働けば、生命力を輝かせる神秘の力になるのである。
意識の上で、最小の力を込め、それが、無意識の力になって継続するのである。
この力を習得するのにお奨めなのは、時々述べるが、京都の広隆寺にある、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)を見ることである。
この弥勒菩薩像は、生涯で一度は見るべきものと言われ、海外のVIPが密かに広隆寺を訪れて見ることも多い。
別に、写真でも良いと思うが、可能なら、実物を見れば良いだろう。
力が抜けた、究極の達人の姿を見ることが出来る。
そして、我々は、この弥勒菩薩の右手の薬指と親指が微かに触れている、その姿、表情を真似、練習すると良い。
この弥勒菩薩像を思い出しながら、そうすることで、極小にして究極の力を自分のものにすれば、この宇宙に敵はいない。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
しかし、ここが日本語のおかしなところだが、力を抜くというのは、脱力とは違うのである。
プロ野球の超一流のピッチャーは、良い投球をした後で、「力を抜いて投げることが出来た」と言うことがよくある。
しかし、脱力したらピッチングそのものが出来ない。
武道の達人が立っている姿、座っている姿、あるいは、静かに礼をする姿がとても感動的なことがあるが、なぜ素晴らしいのかというと、力が抜けているからだが、脱力してだらんとしているのでは勿論ない。
「余分な力が抜けている」と言っても良いが、その余分な力だって無ければピッチングも、礼1つも成り立たない。
力が抜けるとは、力を出す意識がないことだが、それでいて、力が出ているのである。
剣の達人が、しこたま酒を飲んだ後で、刺客に襲われた時、こう言う。
「俺の剣は、酔えば酔うほど鋭さが増すぞ」
強がっているのではない。
本当にそうなのである。
もちろん、酒に強い体質であることも必要だが、チンピラのケンカですら、酔っ払った者が意外に強いことを、経験上、よく知っている者もいるだろう。
合気道の神的な達人、植芝盛平の礼は、一度見たら忘れられないほどの感銘を与えると言われる。
力を抜いた究極である無を見ることが出来るのだろうと思う。
このような人物が、果たして現存するのかどうかは分からないが、近い人なら、どこにでもいると思う。
お坊様が念仏を唱える際、良いお坊様は、大きな響く声で唱えても、よく力が抜けている。
だから、無量寿経(大無量寿経)などの長いお経を唱えても、最後まで疲れていない(むしろ活力が高まる、つまり、元気になっている)。
普通の人が真似したら、最後は声がかすれてしまう。
そして、念仏でも、神道の呪文でも、本当に良い唱え方は、小さな声で唱えることだ。
隣の人にすら、念仏や呪文を唱えていることが分からないくらい、小さな声で唱えるのが良いのだ。
実際には、ほとんど、あるいは、全く声が出ていないかもしれない。
しかし、そのような念仏や呪文が本物であり、力がある。
これは、ユダヤ教やキリスト教、あるいは、イスラム教の祈り言葉でも同じだと思う。
もちろん、僧の修行やお勤めの際、また、一般の人でも習い始めの頃は、大きな声を出す練習も必要だが、念仏、呪文、祈りそのものは、小さな声でやるのが良い。
そして、小さな声で念仏や呪文を唱えることを覚えないままでいてはいけない。
この小さな、微かな声の念仏や呪文が、力が抜けた念仏や呪文、あるいは、「極小にして極大」の念仏や呪文につながるのであり、神仏の加護を得、いかなる願いも叶えるものである。
偉大な神道家だった黒住宗忠は、常に下腹に力を込めていたし、岡田式静坐法の岡田虎二郎は、常に腹に力を入れていなければならないと言っていた。
そして、ヨーガの中村天風は、いつも肛門を引き締めていろと言った。
だが、これらの力とは、うんうん唸りながら、万力を込めるというものではない。
そんなことが出来るはずがない。
腹に入れる力、肛門を締める力とは、極小の力であり、それが働けば、生命力を輝かせる神秘の力になるのである。
意識の上で、最小の力を込め、それが、無意識の力になって継続するのである。
この力を習得するのにお奨めなのは、時々述べるが、京都の広隆寺にある、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)を見ることである。
この弥勒菩薩像は、生涯で一度は見るべきものと言われ、海外のVIPが密かに広隆寺を訪れて見ることも多い。
別に、写真でも良いと思うが、可能なら、実物を見れば良いだろう。
力が抜けた、究極の達人の姿を見ることが出来る。
そして、我々は、この弥勒菩薩の右手の薬指と親指が微かに触れている、その姿、表情を真似、練習すると良い。
この弥勒菩薩像を思い出しながら、そうすることで、極小にして究極の力を自分のものにすれば、この宇宙に敵はいない。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気ランキング参加中です |