お釈迦様のように悟りを開いたら、どんな状態になるのだろう?
絶対的な幸福感にいつも満ちているとか、内なる神を意識するとか、超意識Xに到達する・・・などということを、訳の分からない表現で述べる困った人が沢山いると思う。

悟りとは、次の2つだ。
1つは、自分を見限ること。
1つは、神に逆らわないこと。

つまり、自分が救いようのない愚か者であることを、とことん思い知って、その事実を全く疑わず、そんな自分が、神と運命の支配権を争わず、一切を神の手に委ねることだ。

普通の人は、社長には逆らわないが、神には逆らうのだ。
一方、聖者は、社長に逆らっても覚えていない。

悟りを開いた聖者だって、怒るし、悲しむし、欲情するし、恐がる。
だが、愚痴を言ったり、言い訳することはない。
なぜなら、愚痴や言い訳というのは、怒りや恐れを長く続けた結果なのだが、聖者の感情の変化は速い。
多くの場合、怒りや悲しみは、すぐに上機嫌に変わる。
ただし、自分でそう(感情の変化が速いこと)しようと思っているのではないし、また、それは、修行の成果でもない。
自分を見限っていて、全く重要視していないので、自分の気持ちを宝物のように扱わず、神に逆らわないので、単に無策・・・早い話が、何も考えていないのだ。

聖者は、就職の面接に行って、断られ、がっかりしたり、悔しく思っても、すぐに、「さすが人事担当、見る目がある」と本当に思って諦めるし、どうなるかを決めるのは神なのだから、余計なことを考えない。
自分が働くことを神が決めたのなら仕事は避けられないし、働かないと決められているなら、いくら探しても仕事は見つからない。
それが当たり前だと「分かっている」のだ。

ある人が、年を重ねて修養が進んだことを言うために、
「見知らぬ馬鹿に、頭を殴られても、殴り返さない自信がある」
と言っておられた。彼は超人的な武道家であった。
自分を抑えて殴り返さないのは、人間性が高くなったのでは全くなく、単に、世間的に賢くなって大損を避けただけであり、聖者だって同じようにするだろう。
ただし、ムカッとして怒るのは、この人も聖者も同じなのだ。
違いは、この武道家が、「俺もかなり人間が出来てきた」と自己満足したがるのに対し、聖者は卑しい感情を避けられない自分を憐れむのだ。

毎日、長時間瞑想したり、聖典を読んで、自分が進歩したと思っているような人間は、決して悟りを開くことはない。
それどころか、何をするか分からない危ない人である。
なぜなら、彼は自分を高く買っているので、プライドが傷つけられたら激情し根深く恨むし、また、自分は立派なので、何をしても許されると思っているからだ。

しかし、仕事や、あらゆる人々との関わりの中で、自分がつくづく馬鹿だと、腹の底から思い知った時に、悟りへの道が開かれるのである。
自分があまりに愚かで、愛想も尽きて見捨てた時、神は、降伏宣言への調印を求めるのだ。
例えていえばこうである。
自分の土地にしがみついて苦労している農民に、王様は、土地を明け渡して、小作人になることを求める。
農民は、それを拒否し続けていたが、ある年、非常な凶作で食べるものがなくなり、どうせ死ぬからと、農地を王様に納めた。
すると、王様は、他の農地で採れたものを、その農民に回してくれた。
それからは、彼の農地で取れたものも、全ていったん回収し、改めて、全ての人に分配するのである。
そして、実際のこの世の王である神は、有り余る余剰を持っており、人生全てを留保なく明け渡した者に恵み与える。
こう言うと、どこにでもある宗教の教えのように感じるが、人生を明け渡すことが出来るのは、自分を見限って、悟りを開いた者だけである。









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