最近、よく念仏のことを書いているが、念仏と言えば、死後に救われるという宗教だと思っている人が多いと思う。
しかし、念仏とは、今、この場で、幸運やエネルギーといった利益を得ることが出来る未来科学である。
その点は追々、説明するが、今回は、法然の念仏と親鸞の念仏の違いを採り上げる。

法然の念仏と、親鸞の念仏は、根本精神は同じとはいえ、かなり違う。
どっちが上と言うのではないが、私は、今は、親鸞の念仏を取っている。
なぜなら、単に、楽だからである。
そもそも、念仏そのものが楽なのだが、親鸞の念仏は、とびきり楽なのである。
それでいて、意外に思うかもしれないが、法然も、親鸞も、共に、利益は無限とはっきりと書き残しているのである。

法然は、もちろん、一般人にまでは強要しなかったと思うが、戒律といったものも重視していたと思う。
戒律とは、簡単に言えば、酒、女(女から言えば男)、肉食といったものの禁止である。

だが、宗派が違いながらも法然を尊敬していた一休は、そういった戒律を全部破り、酒を飲み、肉食し、77歳になっても若い美女と同棲し、それでパワーがついたのか、80歳で大徳寺の住職になっている。
ただし、一休は、弟子達には、戒律を守らせたらしい。
ところが、親鸞は、自分も戒律を破って、当時の僧としては常識外れの妻帯をし、肉食もしていたが、弟子を含む他人にも、固いことは一切言わなかったと思う。
親鸞は、誰がどんな悪いことをしようが、咎めるつもりはなかった。
さらには、善いことをしようと思うなと言っていたのである。
もちろん、進んで悪いことをする必要はないし、また、自然に善いことをするのは、言うまでもなく結構だが、自主的に、自分の力で善いことをする必要はないと言った。
縁があれば、心が善くなくても善いことをするし、心が悪くなくても悪いことをしてしまうのである。
それは、自分ではどうすることも出来ないのである。

次に、念仏の唱え方である。
法然は、とにかく、数多く唱えることを勧めた。
法然自身、1日6万回とも、7万回ともいう数を唱え、いついかなる時も唱えるべきと言った。
そこまでは出来ないとしても、1日に唱える回数を決め、それをやり抜くよう励ましたのである。

一方、親鸞は、何と、別に唱えなくても良いと言う。
ただ、阿弥陀如来に全てまかせてしまうと決めたらそれで良く、その感謝の気持ちとして、唱えたくなったら、唱えれば良いと言ったのだと思う。
もちろん、念仏を唱えるのは良いことであるが、無理に唱える必要はないのである。
こういった教えは、確かに、法然に怒られたこともあったようだが、親鸞は別に、法然の教えに背いた訳ではない。
親鸞は、法然のことは心から尊敬しており、それは生涯変わらず、晩年になっても、自分の念仏は、法然に教わったものだと明言していた。
ただ、時代が変われば、新しい考え方が必要になる場合がある。
親鸞の念仏は、現代では、多少のマイナーチェンジが必要としても、僅かな修正で十分であると思う。
念仏は、もちろん、成功哲学などではないが、その力としても、西洋の引き寄せなどの成功法則とはレベルが違うと思う。









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