この世界は、なりゆきにまかせることが一番安全だし、そう出来る者が最も強い。
ニーチェはそう考えていたのかもしれず、いかなる偶然の出来事も、自分が望んだことだとした。
だが、イェイツは、少し進んでいたかもしれない。
戯曲の中の登場人物に、こう言わせている。
「予期出来ないことでさえあれば、どんなことも起こることが最善だ。サイコロが私の神だ」
また、イェイツは、こんな手記を残している。
「神がサイコロを振って出した目を、私は、私の意志とする。その時、私は限りなく神に近付く」
ニーチェは、運命を司る神と自分に分離があったが、イェイツは、神との一体化を求めた。
荘子の根本的な教えもまた、「一切をなりゆきにまかせる」だ。
荘子は、それで良くなるとも、悪くなるとも言っていない。
しかし、なりゆきにまかせることで、荘子は、道(タオ)という、おそらく、神々すら生み出した、本来は名付けようもない万物の根源と一体化すると言った。
なりゆきにまかせる者には、神々すら平伏(ひれふ)すとまで言う。神以上の道と一体化しているのだから、そうなるのだろう。
これは、暗に、なりゆきにまかせて悪くなるはずがないと言っているも同じと思う。
イエスは、いかなることも神の意思によらなければ起こらないと言う。
つまり、人間は、なりゆきにまかせるしかない。
だが、イエスの場合は、神は、あなた方一人一人に、この上ない関心と思いやりを持っているのだから、絶対的に安心しなさいと言ったのである。
だから、モーセの十戒の中でも第一の掟は、神を愛することだと言ったのだ。
だが、やはり、神と人間に分離があるように思える。
一休さんは、臨済宗という禅宗系の僧侶でありながら、浄土宗の法然の念仏を高く評価していた(元々、一休は宗派にこだわる人ではないが)。
だが、面白いことを言っている。
「阿弥陀如来は西に居るのではない。南に居る」
この南とは、「皆身」であり、全ての人の内に居ると言うのである。
そして、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えると、内にある仏が出てくるのである。
それは、火打石を打ったら、火打石の中に元々あった火が出るようなものだと。
一休さんにおいては、仏との分離があるどころか、最初から、一体化しているのである。
黒住宗忠もまた、「人間と天照大神は一体である」と言い、宗忠に2度、こう言われてすぐに悟った人もいたのである。
そして、宗忠も、「神に丸ごと一切まかせなさい」と教えた。
ただ、宗忠は、イエスほどうるさくはなかったが、道徳的なことも少しは述べた。
親鸞となると、どんな善いこともする必要はないし、むしろ、しようと思ってはならないと言った。
なぜなら、念仏以上の善は無いし、念仏の威力を妨げるほどの悪も無いからだ。
そして、阿弥陀如来に全てまかせると決めた瞬間に、阿弥陀如来はぴったりくっついて離れず、オールオーケーとなる。
そしたらもう、念仏を唱える必要もないが、感謝のつもりで一度、唱えると良いだろう程度なのであるが、自ずと、感謝の念仏は続くかもしれない。
これは、理屈の上では、仏との分離があるように思えるが、気持ちの上では、これ以上の一体感はない。
これが究極ではないかと思う。
これに関し、『あしたのジョー』で、力石が死んだ時、丈が魂が抜けたようになったことを思い出す。
丈自身にも、その理由が分からなかったが、やがて悟る。
他の、少しは親しくなった人達・・・西や丹下のおっちゃんらは、どこか、自分(丈)から一歩離れていた。
だが、力石だけは、自分と完全にぴったりくっついて殴り合ってくれた。
そんな力石だけが本当の友達だったのだと。
阿弥陀如来は、人間にとって、丈にとっての力石と同じものなのだと思う。
上にも挙げた通り、なりゆきにまかせれば、悪いようにはならない。
連休も終わったが、まあ、気楽に行こうではないか?
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ニーチェはそう考えていたのかもしれず、いかなる偶然の出来事も、自分が望んだことだとした。
だが、イェイツは、少し進んでいたかもしれない。
戯曲の中の登場人物に、こう言わせている。
「予期出来ないことでさえあれば、どんなことも起こることが最善だ。サイコロが私の神だ」
また、イェイツは、こんな手記を残している。
「神がサイコロを振って出した目を、私は、私の意志とする。その時、私は限りなく神に近付く」
ニーチェは、運命を司る神と自分に分離があったが、イェイツは、神との一体化を求めた。
荘子の根本的な教えもまた、「一切をなりゆきにまかせる」だ。
荘子は、それで良くなるとも、悪くなるとも言っていない。
しかし、なりゆきにまかせることで、荘子は、道(タオ)という、おそらく、神々すら生み出した、本来は名付けようもない万物の根源と一体化すると言った。
なりゆきにまかせる者には、神々すら平伏(ひれふ)すとまで言う。神以上の道と一体化しているのだから、そうなるのだろう。
これは、暗に、なりゆきにまかせて悪くなるはずがないと言っているも同じと思う。
イエスは、いかなることも神の意思によらなければ起こらないと言う。
つまり、人間は、なりゆきにまかせるしかない。
だが、イエスの場合は、神は、あなた方一人一人に、この上ない関心と思いやりを持っているのだから、絶対的に安心しなさいと言ったのである。
だから、モーセの十戒の中でも第一の掟は、神を愛することだと言ったのだ。
だが、やはり、神と人間に分離があるように思える。
一休さんは、臨済宗という禅宗系の僧侶でありながら、浄土宗の法然の念仏を高く評価していた(元々、一休は宗派にこだわる人ではないが)。
だが、面白いことを言っている。
「阿弥陀如来は西に居るのではない。南に居る」
この南とは、「皆身」であり、全ての人の内に居ると言うのである。
そして、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えると、内にある仏が出てくるのである。
それは、火打石を打ったら、火打石の中に元々あった火が出るようなものだと。
一休さんにおいては、仏との分離があるどころか、最初から、一体化しているのである。
黒住宗忠もまた、「人間と天照大神は一体である」と言い、宗忠に2度、こう言われてすぐに悟った人もいたのである。
そして、宗忠も、「神に丸ごと一切まかせなさい」と教えた。
ただ、宗忠は、イエスほどうるさくはなかったが、道徳的なことも少しは述べた。
親鸞となると、どんな善いこともする必要はないし、むしろ、しようと思ってはならないと言った。
なぜなら、念仏以上の善は無いし、念仏の威力を妨げるほどの悪も無いからだ。
そして、阿弥陀如来に全てまかせると決めた瞬間に、阿弥陀如来はぴったりくっついて離れず、オールオーケーとなる。
そしたらもう、念仏を唱える必要もないが、感謝のつもりで一度、唱えると良いだろう程度なのであるが、自ずと、感謝の念仏は続くかもしれない。
これは、理屈の上では、仏との分離があるように思えるが、気持ちの上では、これ以上の一体感はない。
これが究極ではないかと思う。
これに関し、『あしたのジョー』で、力石が死んだ時、丈が魂が抜けたようになったことを思い出す。
丈自身にも、その理由が分からなかったが、やがて悟る。
他の、少しは親しくなった人達・・・西や丹下のおっちゃんらは、どこか、自分(丈)から一歩離れていた。
だが、力石だけは、自分と完全にぴったりくっついて殴り合ってくれた。
そんな力石だけが本当の友達だったのだと。
阿弥陀如来は、人間にとって、丈にとっての力石と同じものなのだと思う。
上にも挙げた通り、なりゆきにまかせれば、悪いようにはならない。
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