現代人に、「南無阿弥陀仏という念仏を唱えれば、阿弥陀仏という無限の力を持つ仏様が救ってくれる」と言っても、信じられないだろう。
ところで、その「南無阿弥陀仏」を、中国の荘子の言葉で言えば、「なりゆきにまかせる」になるのだと思う。
「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀如来という最高の仏様に全ておまかせしますという意味だが、阿弥陀如来とは、無限の光を持つ仏とか、無限の寿命を持つ仏という意味で、つまるところ、西洋で言う絶対神であり、宇宙そのものと言って良いだろう。
その宇宙そのものにまかせ切ってしまうというのが「南無阿弥陀仏」なのだから、「全てなりゆきにまかせよ」と言う荘子の教えと同じなのである。
ただ、阿弥陀如来という慈悲深い存在にまかせるというのと比べ、荘子のは、いかにも心もとない感じになるだろう。

荘子も、真宰(しんさい)という、全宇宙を統率運営する者が存在するとは言うが、それは、普通に言われる神のようなものではなく、人間には理解不能なものだ。
そして、「なりゆきにまかせよ」とは言うが、実際は、「なりゆきにまかせるしかない」のであり、あらゆる出来事や、自分の心ですら、自分の自由になる訳ではない。
しかし、人間としては、自分や世界の運命を託す真宰とはどんな存在であるか気になるところであるが、それは人間の知性を超える存在であるのだから、どうしようと分からないのである。
真宰は神のようなものではないかもしれないが、人間にその区別がくつはずもなく、一応は神と考えても良いのだが、そもそも、人間には神だって、いかなるものか分かる訳でもない。
そこで、アインシュタインが一応の結論として、うまいことを言っている。
それは、「神は老獪である。だが、悪意はない」だ。
「善意」と言えば、人間それぞれの考え方によって限定が出来てしまう。
「悪意」だってそうなのだが、それを否定することによって、無限の広がりを持つのである。
「美人」と言ったら、人それぞれの好みで決まるが、「不美人以外」と言ったら、自分の好み以外の美人も含まれるようなものである。

阿弥陀如来と言ったところで、それがどんな存在か、本当は理解できないはずである。だが、それは、決して悪意のない存在であることは、信じても良いのではないか?
それでいえば、案外に、「南無阿弥陀仏」というのは、アインシュタイン的に、論理的、科学的であるのだと思う。
ご存知かもしれないが、アインシュタインの論理は感情を無視しないが、それは欠点ではなく、そもそもが、科学とは、数学ですら、感情抜きで成立しないことが、実際に数学的に証明されているのである。
私は、権威ある仏教やお寺のお坊様が言われる「南無阿弥陀仏」は信じられないかもしれないが、新しい、そして、おそらく原初の意味に近い「南無阿弥陀仏」は信じられるのであり、結局は、それが、親鸞の念仏であるのだと思う。









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