どんな幸運の法則も1つにまとめることが出来る。
水野南北は、運命は食が多いか少ないかで決まり(食が少なければ幸運、多ければ衰運)、万に1つの外れもないと断言し、自ら証明もした。
しかし、この本質とは、人間は食を慎めば確実に辛いので、その辛さに耐えることで幸運が得られるということなのだ。

ラマナ・マハルシは、沈黙の行を重んじていたように思うが、これも、人間は、自己主張したり、自慢したり、批判したり、言い訳したり等が大好きなのであり、それらをしなければ苦しいのだから、それらをやめてしまい・・・つまり、話すことをやめて苦しさに耐えれば、神の恩寵が与えられるということなのである。

ナポレオン・ヒルは、性エネルギーの転換だとか難しい言い方をしたが、これだって、生殖器官を使うことは楽しいが、逆に、それをしないことは苦しいのだから、あえて、性的行為を諦めて、その苦しさに耐えれば運に恵まれることを発見したのだ。

法然は、起きている間はずっと念仏を唱えよと言ったが、それは決して楽しいことではなく、辛いのだということを、『選択本願念仏集』ではっきり書いている。
しかし、その苦しさに耐えれば、死んだ後はもちろん、生きている間も、ずっと仏の保護を得られると述べているのである。

その他の、いかなる幸運を呼び込む方法も全て、根本的には、自主的に苦しみに耐えるということだ。

ところで、ラマナ・マハルシは、「強制的に会話を止められることは沈黙の行ではない」と言った。
そして、貧しくて食べることが出来ないとか、プライベートな場所がないので性行為に耽るころが出来ない、また、無理矢理に念仏を唱えさせられるというのも、原則的に幸運を呼ばない。
しかし、食べるものを得ることが出来なくても、黙って耐え、心の中でも、不満も恨み言も言わなければ、それは運を呼ぶ修行になる。
強制的に会話を禁じられても、「私は耐える」と決意し、平静でいれば、やはり大きな神の恵みを得るのである。

イエスは、「苦しんでいる者は幸いである」と言ったが、暗に、「黙って耐えれば」と言っているのだと思う。
徳川家康は、「人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくが如し」と述べたが、誰でも、嫌でも苦が与えられるが、それに黙って耐えれば、運に恵まれるのである。
イエスも、家康も(意外に名前が似ている)、「黙って耐えれば運に恵まれる」は、あからさまに言うより、示唆(それとなく示す)した方が効果的、あるいは、美しいと感じたのかもしれない。
しかし、欲深な現代人には、はっきり言ってやるのも良いかと思う。
現代人は、運が貸し出し超過しており、少しは運を貯めないと危ないのである。









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