心も身体も、経済状態も運命も、無理に動かそうとすると、必ず反発を招き、まずい結果になる。
これらを動かせるのは「ゼロの力」だけである。
この力は、いったん身につければ易しいものなのに、誰もそれを修得していない。

ゼロの力は、息の止め方1つで発揮出来る。
ただし、普通に言う息の止め方では駄目だ。
普通は、息を止めるというと、喉の奥を筋肉で圧迫して気道を塞ぐだろう。
それは、水に潜るという緊急事態の場合は仕方がないが、緊張を起こすので、好ましくない方法だ。
正しい息の止め方は、吸いもせず、吐きもしない状態だ。
普通は、呼吸は意識しなくても自動的に行われるが、それに僅かな意思を介入させ、吸うことも、吐くことも止(や)めるのである。
これが、最小限・・・ゼロの力で呼吸を止(と)める方法である。

ところで、道家(老荘思想家)の著名な教師が、
「呼吸を制御するのは不自然でよろしくない。我々の流派では、呼吸をただ観察するのみである」
と著書に書かれていた。
それはそれで、立派な態度である。
老子や荘子の言う、無為自然の態度であるのだから。
ただ、それは聖人の態度なのである。
病気になっても、経済状態が窮乏していても、いじめられても、それを良きこととして、あるがままに見て作為しない・・・そんな超越した態度である。
聖人にとっては、健康と病気、富裕と貧窮、友愛と憎悪、友好と敵対は同じものなのだ。
それは確かに、理想の境地である。
だが、あなたはそれで良いのか?

二宮金次郎は、それを拒否した。
「老子よ。無為自然ばかりでは駄目なのだ。家は人が手を入れなければあばら家になる。畑は人が手入れしなければ荒れ放題だ。それでは人は生きていけない」

私は、老子も荘子も金次郎も、全て是とする。
それを成り立たせるのが、ゼロの力・・・作為していることも意識しない、限りなくゼロに近い、微かな力だ。
昨夜書いた、人差し指を立てることも、ゼロの力の1つだ。
今回は、呼吸停止の法を述べている。
好きな方を使えば良い。

ゼロの力で、吸うことも吐くことも止(や)めると、心は無意識に溶け込む。
なぜなら、普通は無意識に行われる呼吸に、心がごく微かな力で介入することで、無意識の抵抗を受けずに、心は無意識に入り込めるのだ。
これは、非常に高度な秘術である。
このように呼吸を止めれば、即座に魔法の力を発揮できる。
また、普段から、ゼロの力で呼吸を微かにしていれば、心は常に広大なる無意識と親しみ、無意識の中の英知にアクセス出来る。

あまり言葉を重ねて解説すると、複雑に感じてしまうので、この程度にするが、実際、シンプルなことなのである。
潜在意識の力や魔法の力を使うのに、難しい理屈はいらないのである。
なぜなら、その力は、人間の自然な力だからである。
だが、不自然な、異常な人間には、その力は無いに等しい。
ある程度の練習は必要かもしれないが、真摯にやれば、即座に出来る。
即ち、心を込めて人差し指で天を指したり、微かな呼吸をすることである。









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