人間は生き甲斐がないと生きて行けない。
しかし、生き甲斐だけでは、生きている意味がない。
希望がなければ、生きているとは言えないのだ。
希望は、生き甲斐よりも大きなものだ。
生き甲斐というなら、美味しいものを食べるとか、今日も酒を飲めるとか、野球選手が野球をやれるとかがあると思うが、それらは、いつまでもあるものではない。
生き甲斐は減っていったり、中断を余儀なくされる。
生き甲斐とは心のもので、希望とは魂のものだ。
むしろ、生き甲斐を捨てることで、希望が得られることもある。
「この子が私の生き甲斐」といつまでも言っていたら、その子を駄目にし、あげく、殺すことになる(いろんな意味で)。
だが、「この子が希望」と言うなら、その子が死んだって希望は残る。

ある人気プロレスラーが引退した時、彼の数十年来のファンだった男性が、「あいつのファイトを見られないなら、死んだ方がマシだ」と言った。
このファンは、そのレスラーの試合が生き甲斐だったのだが、希望にまで昇華できなかったのだ。
そのレスラーが、そこまで自分を惹きつけたものを見出せば、希望が得られたはずなのだ。

美術界の権威であった美術評論家のヴィル・グローマン博士は、池田満寿夫さんへの手紙の中で、「私の部屋に君の作品を飾っている。これを毎日見るのが私の楽しみだ」と書いていたらしい。
グローマン博士にとって、池田さんの版画を見ることは、生き甲斐ではなく、希望なのだ。
私が、初音ミクさんの歌を聴いたり、コンサートの映像を見るのは、生き甲斐ではなく、絶対的に希望なのである。

生き甲斐は個人的なものだが、希望とは、個人の枠を超えたものだ。
生き甲斐は自分のためのものだが、希望は全てのもののためにある。
アインシュタインは、「人は自分以外のもののために生きるようになって初めて、本当に生きることになる」と言ったらしい(武内直子さんの漫画『美少女戦士セーラームーン』で、セーラーサターンこと土萠ほたるが言ったこと)。
生き甲斐よりも希望を優先するようになって、初めて人間と言えるのだという意味と思う。

では、希望はどうすれば持てるのか?
上で、生き甲斐を捨てることで、希望が得られることもあると書いた。
この「生き甲斐を捨てる」とは、完全に捨てることではなく、制限するということだ。
例えば、美味しいものを食べることが生き甲斐でも、それをあまり追い求めず、そこそこにするということだ。
上に挙げた、あるプロレスラーの試合を見ることを生き甲斐にしていた人は、熱の入れ過ぎだったのだ。そういったことは、もっと控え目にやっていれば、希望が得られたのだ。
人間には、生き甲斐も必要だ。
しかし、それだけでは、いつか、「僕の人生とは、いったい何だったのか?」と悩むことになる。

水野南北は、人の運命は、食の多い少ないで完全に決まり、それは、万に一つの例外もないと言ったが、その理由はこうだ。
ほとんど全ての人にとって、食べることが生き甲斐なのであるが、それを制限することで希望が得られるからだ。
だが、水野南北だって、苦行僧のような生活をしたのではなく、少ないながら、美味しく食べ、大好きな酒も、一日一合(180ml)と制限はしていたが、十分に楽しんでいた。
完全に食を断てば、食べないこと自体が希望になるかもしれないが、それは誰にでも出来ることではない。
生き甲斐はちゃんと持てば良い。だが、それを過分に求めてはならない。

初音ミクさんは、生き甲斐にもなる。歌声も姿も可愛いし、スキャンダルを起こしてがっかりさせられることもない。
しかし、初音ミクさんは人類の希望でもあるのだ。そして、他の星の生命にとっての希望でもある。地球という星は、他の星、他の星の生命にとっても重要であるからだ。
宇宙人は、はっきりと、初音ミクさんを宇宙の希望と言っているのである。
秘密裏になるかもしれないが、やがて、宇宙人が、クリプトン・フューチャー・メディアに、コンサートの依頼をしてくるだろう。
他の星でも、ミクさんのファンは多いのである。

生き甲斐がないって言うなら、それは食べ過ぎだ。
適切な食べ方をしているなら、食べることが十分な生き甲斐になる。
そして、食べることを厳しく制限すれば、希望が得られる。
この希望が、本当の意味での夢である。
夢とは、宇宙飛行士になることでも、オリンピックで金メダルを取ることでもない。
それらは、せいぜいが生き甲斐である。
金メダルの栄誉にしがみ付いている間は希望は得られない。
金メダルの有力候補と言われながら、それを得られなかった者は希望に近い。だが、そんな者の多くが、金メダルに執着して希望を逃すのだ。

大きな生き甲斐、快楽、栄誉、富、待遇を求めないことだ。
それらを全て捨てて生きることも出来ないが、それらは、本物の価値ではない。
私があまり食べないのを見て、「しっかり働いて、美味しいものを食べるのが人間の生き甲斐ってものじゃないか」と説教してきた馬鹿がいたが、彼は希望を持てないのだ。
私とて、食べることは生き甲斐である。
しかし、希望はもっと大切なのである。
だが、私も、時々、快楽主義に陥り、食べること等のために生きることになるかもしれない。
しかし、そんな時は苦しいものなのだ。
そうなってしまった時は、希望のために、生き甲斐に厳しい制約を課すのである。そうすると、神は、制約に倍する力を注いでくれるのである。









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