相手に、どうしても約束を守ってもらわないと困る時、相手が宗教を持っていれば安心なものらしい。
たとえば、相手がイスラム教徒だったら、アッラーに対して誓ってもらえば、それで信用できるのである。
日本人がそうなのだが、宗教を持たない者が世界で嫌われるのは、そういった単純な信用の仕方が出来ないからかもしれない。
つまり、恐い恐い神様がいない人間というのは、信用のおけない、得体の知れない存在なのである。
ところが、その人が、どの神様を恐がっているかが分かれば、その人はもう恐くないのである。
それならば、宗教を持つということは、自分に制約を課すことになり、自由自在性を失うことになる。
だが、良い面もある。
信仰する神様は、恐ろしい存在であると共に、絶対的な力を持つ存在であり、そして、恐れ敬う限りは守って下さるのだから、煩わしいことはお願いして、お任せすれば良いからである。
だが、神様にお任せしたことが、望むようにならなければ失望することになってしまう点はどうするかというと、ちゃんと逃げ道が用意してある。
それは、
「成らなかったのが、神様の思し召しだったのだ」
と考えることである。この考え方は非常に強力である。
成らない方が私のために良かったので、慈悲深き神様は、あえてそうして下さったと考えるのである。
ところが、この「思し召し」には、うまい使い方がある。
最初に、信仰する神に誓わせれば安心と言ったが、信仰者だって、弱味を握られないような知恵を持ってくる。
それは、こんな感じである。
「アッラーの神に誓って、期限までに品物を納品していただけますね?」
と言われると、この神かけた約束を迫られたイスラム教徒は、何と、こう答えるのである。
「それがアッラーの思し召しなら、必ず守りましょう」
つまり、もし、期限に間に合わなかったとしても、それがアッラーの思し召しなのだから、私には何の非もないというのである。
実際、こんなやり取りは、イスラム教徒同士ではよくあるらしい。
「アッラーの思し召しなら、明日10時に、あそこで会いましょう」
と言っておけば、遅刻したとしても、それがアッラーの思し召しであり、責任を免れるのである。
だが、そのような者は、宗教に関わらず、堕落した人間になるのである。
そんなやり方が大らかで良いなんて言う人がいて、私も一時期騙されていたこともあったが、実際は、そんなことをする者達は大らかでも何でもなく、約束を破られた方は相手を恨み、破った方は心の中で舌を出すのである。
人間というものは、卑しい考え方を持てば、卑しい人間になり、内なる神から切り離され、力を無くすのである。
神の思し召しならば、約束を守らなくて良いというのは、卑しい人間の考え方であり、宗教や信仰とは何の関係もないし、魂を踏みにじり、穢す考え方である。
私なら、初音ミクさんに誓えば、必ず約束を守るが、もし約束を破ったら、一切言い訳しないのである。
これが高貴な愛である。
ただし、イエス同様、私も初音ミクさんに誓ったりはしない。
約束は、あくまで自分の責任でするのである。
そして、約束したからには、万策を尽くし、内なる神の知恵を頼ってでも、死んでも果たす。
だが、出来ない約束はしないし、相手の希望に沿えなかった場合の過大な補償もしない。
さて、ここで重要な結論に至るのである。
人類が、これまでは賢くなかったという理由で、ずっと間違っていたことを、ここで正すのである。
それは、約束というものは一方的なものではないということだ。
約束には、約束する者と、約束される者がいるのではない。
2人が約束をしたとすれば、2人が共に、約束を守る者なのである。
そうであれば、その約束には、いかなる誓いも、補償も、罰則も不要である。
約束が果たされなかった時、それは、いずれかが破ったのではない。両方が約束を破ったのである。
これが、新しい時代の、新しい考え方である。
人類は、ここに至るまでに、何とも長い苦難の時を過ごしてしまったのである。
だが、この知恵を得たからには、これからは宇宙人とも交際できるのである。
約束とは、互いの鼓動を信じることなのである。
壊れ行く世界が 今 鼓動の意味を示し始めた
心の中 固く誓う 君を守るよ ずっと…
~『Promise』(作詞、作曲、編曲:samfree 歌:初音ミク&鏡音リン)より~
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たとえば、相手がイスラム教徒だったら、アッラーに対して誓ってもらえば、それで信用できるのである。
日本人がそうなのだが、宗教を持たない者が世界で嫌われるのは、そういった単純な信用の仕方が出来ないからかもしれない。
つまり、恐い恐い神様がいない人間というのは、信用のおけない、得体の知れない存在なのである。
ところが、その人が、どの神様を恐がっているかが分かれば、その人はもう恐くないのである。
それならば、宗教を持つということは、自分に制約を課すことになり、自由自在性を失うことになる。
だが、良い面もある。
信仰する神様は、恐ろしい存在であると共に、絶対的な力を持つ存在であり、そして、恐れ敬う限りは守って下さるのだから、煩わしいことはお願いして、お任せすれば良いからである。
だが、神様にお任せしたことが、望むようにならなければ失望することになってしまう点はどうするかというと、ちゃんと逃げ道が用意してある。
それは、
「成らなかったのが、神様の思し召しだったのだ」
と考えることである。この考え方は非常に強力である。
成らない方が私のために良かったので、慈悲深き神様は、あえてそうして下さったと考えるのである。
ところが、この「思し召し」には、うまい使い方がある。
最初に、信仰する神に誓わせれば安心と言ったが、信仰者だって、弱味を握られないような知恵を持ってくる。
それは、こんな感じである。
「アッラーの神に誓って、期限までに品物を納品していただけますね?」
と言われると、この神かけた約束を迫られたイスラム教徒は、何と、こう答えるのである。
「それがアッラーの思し召しなら、必ず守りましょう」
つまり、もし、期限に間に合わなかったとしても、それがアッラーの思し召しなのだから、私には何の非もないというのである。
実際、こんなやり取りは、イスラム教徒同士ではよくあるらしい。
「アッラーの思し召しなら、明日10時に、あそこで会いましょう」
と言っておけば、遅刻したとしても、それがアッラーの思し召しであり、責任を免れるのである。
だが、そのような者は、宗教に関わらず、堕落した人間になるのである。
そんなやり方が大らかで良いなんて言う人がいて、私も一時期騙されていたこともあったが、実際は、そんなことをする者達は大らかでも何でもなく、約束を破られた方は相手を恨み、破った方は心の中で舌を出すのである。
人間というものは、卑しい考え方を持てば、卑しい人間になり、内なる神から切り離され、力を無くすのである。
神の思し召しならば、約束を守らなくて良いというのは、卑しい人間の考え方であり、宗教や信仰とは何の関係もないし、魂を踏みにじり、穢す考え方である。
私なら、初音ミクさんに誓えば、必ず約束を守るが、もし約束を破ったら、一切言い訳しないのである。
これが高貴な愛である。
ただし、イエス同様、私も初音ミクさんに誓ったりはしない。
約束は、あくまで自分の責任でするのである。
そして、約束したからには、万策を尽くし、内なる神の知恵を頼ってでも、死んでも果たす。
だが、出来ない約束はしないし、相手の希望に沿えなかった場合の過大な補償もしない。
さて、ここで重要な結論に至るのである。
人類が、これまでは賢くなかったという理由で、ずっと間違っていたことを、ここで正すのである。
それは、約束というものは一方的なものではないということだ。
約束には、約束する者と、約束される者がいるのではない。
2人が約束をしたとすれば、2人が共に、約束を守る者なのである。
そうであれば、その約束には、いかなる誓いも、補償も、罰則も不要である。
約束が果たされなかった時、それは、いずれかが破ったのではない。両方が約束を破ったのである。
これが、新しい時代の、新しい考え方である。
人類は、ここに至るまでに、何とも長い苦難の時を過ごしてしまったのである。
だが、この知恵を得たからには、これからは宇宙人とも交際できるのである。
約束とは、互いの鼓動を信じることなのである。
壊れ行く世界が 今 鼓動の意味を示し始めた
心の中 固く誓う 君を守るよ ずっと…
~『Promise』(作詞、作曲、編曲:samfree 歌:初音ミク&鏡音リン)より~
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2、3回ありました
相手にとって、言葉は「深いもの」「大切なもの」ではないのかもしれません
でも、私も相手に隠してることがあるので
それが罪となって、約束が果たされなかったかもしれませんρ(・・、)