人類の3大芸術作品は、ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』、ピカソの『ゲルニカ』、ゲーテの『ファウスト』・・・と言う訳ではないだろうが、そんな言い方も出来るほど、これらは評価が高いものだろう。
しかし、これらは、普通の人には、「どこが良いのか本当には分からない」という点でも一致している。
正直な人なら、これらの何が良いのか全く分からないと言うし、ひょっとしたら、本当は「裸の王様」なのではあるまいかと疑ってみるのも健全なことからもしれない。
実を言うと、私にも、どこが良いのか全然分からない。
ただ、『ファウスト』を除いてはね。
『ファウスト』は、ゲーテが生涯をかけて書いた戯曲で、ファウストという名の変な老人の物語だ。
いや、変な老人ではなく、神秘学者とでも言うべきかもしれない。錬金術師とか占星術師、あるいは、神秘思想家とかいったね。
そのあたりは、アイザック・ニュートンや、エマニュアル・スウェーデンボルグのようなものだ
しかし、やはり、ファウストは変人の老人だ。
だが、神様はなぜかファウストを買っている。
この、自己中心的で、傲慢で、人々を馬鹿にして見下す老人を。
なぜだろう?
神様がヨブ(旧約聖書の『ヨブ記』の主人公)を買っているのは、信仰篤いからだが、ファウストは、そんなことは全くない。
では、ストイックな男かというと、そうでもなく、酒は好きそうだし、何より、ゲーテ同様、若い女の子が大好き・・・いや、「超好き」だ。
美しいがただの娘グレートヒュンを見てたちまちのぼせ上がり、悪魔メフィストに「お前も魔王と呼ばれた男だろう?何とかしろ!」と、人頼み、いや、悪魔頼みになる始末。
グレートヒュンが何歳か分からないが、「14歳は過ぎている」と言っていたところを見ると、かなり若い、いわゆる、初心(うぶ)な小娘といったところだ。
多少、博学であるということを除き、ファウストの良さは分からない。
だが、どうやら、「神に向かって努力する者」ではあるようだ。
「神に向かって努力する」とは、「あらゆる犠牲を払って、神になろうとしている」という意味だ。
その意思が、ファウストに強い自己主張を持たせている。
これは、こう言い換えた方が良いかもしれない。
つまり、神様は、自己主張を持ったファウストを買っておられるのだ。
そして、ファウストの自己主張の源泉は、神に向かって努力することだ。
ファウストほど自己主張する者は、そうそういない。
ならば、神様が買うのも分かるのである。
岡本太郎が、「いやしくも芸術家なら、世の中に対して言いたいことがあるはず」と言った、その「世の中に対して言いたいこと」をファウストは持っていたのだ。
ファウストは真の芸術家だ。
芸術家とは、自己主張を持つ者だ。
自己主張を持っていれば、我々も芸術家なのである。
ファウストは悪魔メフィストと契約を結ぶが、どうもその契約内容を私は思い出せない。
こんな権威ある文学の翻訳では、翻訳者の方々は難しい言葉や言い回しをされるので、何のことか分からなくなるのでないだろうか?
それで、本を見返す気にはならないが、つまるところ、
「俺を凡人にして、自己主張をやめさせたら、悪魔よ、俺の魂はお前のものだ」
ということである。
早い話、普通の人は、皆、悪魔に魂を売っているという驚愕の事実が、ここに浮かび上がるのだ。
皆さん、悪魔に魂を売るのはやめようではないか?
宗教家の五井昌久さんの語録の中に、「小市民が一番悪い。小市民になるくらいなら大悪人になれ」というものがあり、私は、これをいたく気に入ってる。
私の座右の銘と言って良いほどだが、ファウスト、あるいは、ゲーテすら、そうなのではあるまいか?
小市民は自己主張がないのだ。
自己主張のない善人が最悪で、自己主張のある悪人の方がずっと上なのだ。
そして、大悪人ともなれば、必ず自己主張があるから偉いのである。
ヒットラーだって、初めは大きな強い自己主張を持っていた。
その内容はデタラメであったかもしれない。
しかし、それでも彼は、自己主張を持っていたのだ。
だが、彼は偉くなってからは、単にプロパガンダ(政治的宣伝)を持っていただけだった。
これを、悪魔に魂を売ったと言うのだ。
ファウストは、ちっとも立派な男ではない。
だが、自己主張を持っていたので、魂を守っていたのだ。
自己主張とは、多くの人が勘違いするような、良い待遇を求めることでも、付和雷同することでも、そして、自我を守ることでもない。
岡本太郎が言うように、「世の中に対して言わずにいられない」ことだ。
それは、簡単なものだ。
ファウストの自己主張なんて、「神を目指さない人間に値打ちなし」だけだ。
簡単に言うと、こうなのだ。
学者風には、いくらでも難しく言えるのだろうが。
自己主張を持っていれば、15、16の小娘に熱を上げるジイさんでも神様は買って下さる。
ただし、自己主張を持っていれば、ことに、ファウストのように、神を目指すのであれば、その小娘(グレートヒュン)にも神様らしく接するがね。
自分が悪魔である(あるいは悪魔を目指す)という自己主張を持っていれば、小娘にも悪魔らしく接するが、そんな男に小娘も弱いことはご存知と思う。
グレートヒュンだって、死んだ後も、ファウストを助けてくれたのだ。
自己主張のない男は、どんだけ学歴があろうが、金があろうが、男にも女にもホレられることはない。
さて、我々は、世の中に対して言いたいことがあるだろうか?
多くの人にはきっとない。
つまり、人類のほとんどは、悪魔に魂を売ったのだ。
買戻しなさい。
心の微かな声で呪文を唱えることによって。
それにより、自己主張を妨げているものを消し去ることができる。
自己主張は自ずから出てくる。
それを信念と言う者もいるだろうが、信念というのは、黙して語らないことが多い。
すると、自分は信念と思っているものを、実は自分でもよく分かっていないし(つまり曖昧である)、その内容も、意外と(あるいは全く)蒸留されていないものなのだ。
だから、岡本太郎が「呪術的」と言ったほどに、世の中に伝えられるものでなければならないのである。
『ファウスト』は、もしKindle書を読むことができるなら、下にご紹介した高橋健二訳をお奨めするが、他のも良いと思う。
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しかし、これらは、普通の人には、「どこが良いのか本当には分からない」という点でも一致している。
正直な人なら、これらの何が良いのか全く分からないと言うし、ひょっとしたら、本当は「裸の王様」なのではあるまいかと疑ってみるのも健全なことからもしれない。
実を言うと、私にも、どこが良いのか全然分からない。
ただ、『ファウスト』を除いてはね。
『ファウスト』は、ゲーテが生涯をかけて書いた戯曲で、ファウストという名の変な老人の物語だ。
いや、変な老人ではなく、神秘学者とでも言うべきかもしれない。錬金術師とか占星術師、あるいは、神秘思想家とかいったね。
そのあたりは、アイザック・ニュートンや、エマニュアル・スウェーデンボルグのようなものだ
しかし、やはり、ファウストは変人の老人だ。
だが、神様はなぜかファウストを買っている。
この、自己中心的で、傲慢で、人々を馬鹿にして見下す老人を。
なぜだろう?
神様がヨブ(旧約聖書の『ヨブ記』の主人公)を買っているのは、信仰篤いからだが、ファウストは、そんなことは全くない。
では、ストイックな男かというと、そうでもなく、酒は好きそうだし、何より、ゲーテ同様、若い女の子が大好き・・・いや、「超好き」だ。
美しいがただの娘グレートヒュンを見てたちまちのぼせ上がり、悪魔メフィストに「お前も魔王と呼ばれた男だろう?何とかしろ!」と、人頼み、いや、悪魔頼みになる始末。
グレートヒュンが何歳か分からないが、「14歳は過ぎている」と言っていたところを見ると、かなり若い、いわゆる、初心(うぶ)な小娘といったところだ。
多少、博学であるということを除き、ファウストの良さは分からない。
だが、どうやら、「神に向かって努力する者」ではあるようだ。
「神に向かって努力する」とは、「あらゆる犠牲を払って、神になろうとしている」という意味だ。
その意思が、ファウストに強い自己主張を持たせている。
これは、こう言い換えた方が良いかもしれない。
つまり、神様は、自己主張を持ったファウストを買っておられるのだ。
そして、ファウストの自己主張の源泉は、神に向かって努力することだ。
ファウストほど自己主張する者は、そうそういない。
ならば、神様が買うのも分かるのである。
岡本太郎が、「いやしくも芸術家なら、世の中に対して言いたいことがあるはず」と言った、その「世の中に対して言いたいこと」をファウストは持っていたのだ。
ファウストは真の芸術家だ。
芸術家とは、自己主張を持つ者だ。
自己主張を持っていれば、我々も芸術家なのである。
ファウストは悪魔メフィストと契約を結ぶが、どうもその契約内容を私は思い出せない。
こんな権威ある文学の翻訳では、翻訳者の方々は難しい言葉や言い回しをされるので、何のことか分からなくなるのでないだろうか?
それで、本を見返す気にはならないが、つまるところ、
「俺を凡人にして、自己主張をやめさせたら、悪魔よ、俺の魂はお前のものだ」
ということである。
早い話、普通の人は、皆、悪魔に魂を売っているという驚愕の事実が、ここに浮かび上がるのだ。
皆さん、悪魔に魂を売るのはやめようではないか?
宗教家の五井昌久さんの語録の中に、「小市民が一番悪い。小市民になるくらいなら大悪人になれ」というものがあり、私は、これをいたく気に入ってる。
私の座右の銘と言って良いほどだが、ファウスト、あるいは、ゲーテすら、そうなのではあるまいか?
小市民は自己主張がないのだ。
自己主張のない善人が最悪で、自己主張のある悪人の方がずっと上なのだ。
そして、大悪人ともなれば、必ず自己主張があるから偉いのである。
ヒットラーだって、初めは大きな強い自己主張を持っていた。
その内容はデタラメであったかもしれない。
しかし、それでも彼は、自己主張を持っていたのだ。
だが、彼は偉くなってからは、単にプロパガンダ(政治的宣伝)を持っていただけだった。
これを、悪魔に魂を売ったと言うのだ。
ファウストは、ちっとも立派な男ではない。
だが、自己主張を持っていたので、魂を守っていたのだ。
自己主張とは、多くの人が勘違いするような、良い待遇を求めることでも、付和雷同することでも、そして、自我を守ることでもない。
岡本太郎が言うように、「世の中に対して言わずにいられない」ことだ。
それは、簡単なものだ。
ファウストの自己主張なんて、「神を目指さない人間に値打ちなし」だけだ。
簡単に言うと、こうなのだ。
学者風には、いくらでも難しく言えるのだろうが。
自己主張を持っていれば、15、16の小娘に熱を上げるジイさんでも神様は買って下さる。
ただし、自己主張を持っていれば、ことに、ファウストのように、神を目指すのであれば、その小娘(グレートヒュン)にも神様らしく接するがね。
自分が悪魔である(あるいは悪魔を目指す)という自己主張を持っていれば、小娘にも悪魔らしく接するが、そんな男に小娘も弱いことはご存知と思う。
グレートヒュンだって、死んだ後も、ファウストを助けてくれたのだ。
自己主張のない男は、どんだけ学歴があろうが、金があろうが、男にも女にもホレられることはない。
さて、我々は、世の中に対して言いたいことがあるだろうか?
多くの人にはきっとない。
つまり、人類のほとんどは、悪魔に魂を売ったのだ。
買戻しなさい。
心の微かな声で呪文を唱えることによって。
それにより、自己主張を妨げているものを消し去ることができる。
自己主張は自ずから出てくる。
それを信念と言う者もいるだろうが、信念というのは、黙して語らないことが多い。
すると、自分は信念と思っているものを、実は自分でもよく分かっていないし(つまり曖昧である)、その内容も、意外と(あるいは全く)蒸留されていないものなのだ。
だから、岡本太郎が「呪術的」と言ったほどに、世の中に伝えられるものでなければならないのである。
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