立派な経営理念が会社を潰すことがある。
どういうことかと言うと、経営理念が時代に合わなくなっているのに、会社のシンボルになってしまった経営理念は、なかなか変えられないからだ。
だが、そんなものは、思い切って、変えるしかない。
また、偉大な人物について、「この偉人の座右の銘はこれです」なんて言われることがあるが、実は、本人はその信念のせいで苦しんでいたり、成長できずにいたりすることは案外に多い。
変化することが生きていることなのに、生きるための理念を変えられないとは悲惨なことだ。
だが、偉大な人という評判を得た者は、「一貫性がない」と言われることを恐れるのだ。
ところが、最も偉大な人物であった、ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、「一貫性などなくて良い」「今日は、昨日と違うことを堂々と言えば良い」と「一貫して」言い続けたのだ。
最も優れた経営理念の1つが、ダスキンの「損と得の道があれば、自分に関しては損な道を行く」であるが、これすら変えたって構わないのだ。
もし、どうしても変えてはならない真理があるとすれば、それは、理念とか主義、信念にはなり得ない。
そんな真理とは、「他者に優しくする」だけなのだ。
これは、理想とか道徳、戒律、倫理ですらない。
純粋な真理なのだ。言い換えれば純粋な良心であるが、真理と言った方が良いと思う。
ところが、その真理を大切にしないばかりか、意識的に退ける・・・つまり、積極的に他者に不親切にし、他者を虐げる者が多くなってしまっている。
だが、真理に背くなら、必ず身を滅ぼすことになる。
水野南北は、少食だけが幸福の要因と言ったが、それすら絶対ではない。
なぜなら、人々を精神的に導く者が厳格に少食を貫けば、愚かな庶民が近寄ってこれないからだ。
だから、偉大な僧などは、あえて、大食、大酒飲みでいた者が少なくはない。一休や親鸞もそうだった。
ただし、我々のような普通の人に関していえば、99パーセント以上の確率で、少食で規則正しい生活が幸福の要因である。
このブログに関しても、ごく稀にだが「一貫性がない」と非難する方がいる。
そんなもの、最初からないのである。
死人のためのものであれば、一貫性も良いかもしれないが、死人だって変化しないとは限らず、死者が変わったとて、私には関わりのないことだ。
他者に「一貫性がない」と文句を言う者は依存症であると言うべきだろう。
とはいえ、一貫性の保証などはしないとしても、短い人生の中で守った方が良いことはあると思う。
それは、単に、効率が良いという程度のことかもしれないし、特に若いうちは非効率を試すのも悪くはないが、人生はやはり短い。
そんな、賢い人なら守った方が良いだろうことは、並べれば、次のようなことだ。
・顔を上げる(うつむかない)
・静かに呼吸する
・規則正しい生活をする
・満腹するまで食べて自分を甘やかさない
これで、必要なものは、とりあえず得られる。
だが、こんなことですら、知らないために不幸な者が多いのだ。
これらを守らず、不幸と不足に喘ぐのも、趣味としては面白いものかもしれないが、趣味なら、もっとマシなものを持ってはどうかと思う。
次に、一貫性はないかもしれないが、より大きな恵みや力を得られることとしては、以下のことがある。
・微笑む
・人差し指を開く(人差し指に力を入れないということ)
・肛門を締める
・肛門以外の力を抜く
・微かな声で呪文を唱える
・微かな心の声で呪文を称える
・好きなことをする。ただし、好きなことをするための環境は自分の努力で創らなければならない。
さらに高度になれば、「謙虚である」「観照する」「私は誰かと問う」「受容し、なりゆきにまかせる」などがある。
だが、先ほども述べたが、どうしても守るべきことはただ1つで、「他者に優しくする」だけだ。
上に挙げた全ては、そのために役に立つというだけのことかもしれない。
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どういうことかと言うと、経営理念が時代に合わなくなっているのに、会社のシンボルになってしまった経営理念は、なかなか変えられないからだ。
だが、そんなものは、思い切って、変えるしかない。
また、偉大な人物について、「この偉人の座右の銘はこれです」なんて言われることがあるが、実は、本人はその信念のせいで苦しんでいたり、成長できずにいたりすることは案外に多い。
変化することが生きていることなのに、生きるための理念を変えられないとは悲惨なことだ。
だが、偉大な人という評判を得た者は、「一貫性がない」と言われることを恐れるのだ。
ところが、最も偉大な人物であった、ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、「一貫性などなくて良い」「今日は、昨日と違うことを堂々と言えば良い」と「一貫して」言い続けたのだ。
最も優れた経営理念の1つが、ダスキンの「損と得の道があれば、自分に関しては損な道を行く」であるが、これすら変えたって構わないのだ。
もし、どうしても変えてはならない真理があるとすれば、それは、理念とか主義、信念にはなり得ない。
そんな真理とは、「他者に優しくする」だけなのだ。
これは、理想とか道徳、戒律、倫理ですらない。
純粋な真理なのだ。言い換えれば純粋な良心であるが、真理と言った方が良いと思う。
ところが、その真理を大切にしないばかりか、意識的に退ける・・・つまり、積極的に他者に不親切にし、他者を虐げる者が多くなってしまっている。
だが、真理に背くなら、必ず身を滅ぼすことになる。
水野南北は、少食だけが幸福の要因と言ったが、それすら絶対ではない。
なぜなら、人々を精神的に導く者が厳格に少食を貫けば、愚かな庶民が近寄ってこれないからだ。
だから、偉大な僧などは、あえて、大食、大酒飲みでいた者が少なくはない。一休や親鸞もそうだった。
ただし、我々のような普通の人に関していえば、99パーセント以上の確率で、少食で規則正しい生活が幸福の要因である。
このブログに関しても、ごく稀にだが「一貫性がない」と非難する方がいる。
そんなもの、最初からないのである。
死人のためのものであれば、一貫性も良いかもしれないが、死人だって変化しないとは限らず、死者が変わったとて、私には関わりのないことだ。
他者に「一貫性がない」と文句を言う者は依存症であると言うべきだろう。
とはいえ、一貫性の保証などはしないとしても、短い人生の中で守った方が良いことはあると思う。
それは、単に、効率が良いという程度のことかもしれないし、特に若いうちは非効率を試すのも悪くはないが、人生はやはり短い。
そんな、賢い人なら守った方が良いだろうことは、並べれば、次のようなことだ。
・顔を上げる(うつむかない)
・静かに呼吸する
・規則正しい生活をする
・満腹するまで食べて自分を甘やかさない
これで、必要なものは、とりあえず得られる。
だが、こんなことですら、知らないために不幸な者が多いのだ。
これらを守らず、不幸と不足に喘ぐのも、趣味としては面白いものかもしれないが、趣味なら、もっとマシなものを持ってはどうかと思う。
次に、一貫性はないかもしれないが、より大きな恵みや力を得られることとしては、以下のことがある。
・微笑む
・人差し指を開く(人差し指に力を入れないということ)
・肛門を締める
・肛門以外の力を抜く
・微かな声で呪文を唱える
・微かな心の声で呪文を称える
・好きなことをする。ただし、好きなことをするための環境は自分の努力で創らなければならない。
さらに高度になれば、「謙虚である」「観照する」「私は誰かと問う」「受容し、なりゆきにまかせる」などがある。
だが、先ほども述べたが、どうしても守るべきことはただ1つで、「他者に優しくする」だけだ。
上に挙げた全ては、そのために役に立つというだけのことかもしれない。
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このような修行法って一人の時にはやれるのですが、他人と会話している時にはなかなか集中してやることが出来なくて……
どのように考えたらいいのでしょうか?