傷付き易いとか、クヨクヨすることが非常に多い人達がいる。
そんな性格を繊細だとか、デリケートだなどと勘違いしてはならない。
まして、それが知的であるという訳ではない。
そんな人間は、心が弱いというだけのことである。
心の土台がしっかりしていない・・・つまり、自己が確立されていないので、すぐに揺らいでグラグラするのである。
心が弱い人間の特徴は、自分にしか関心がないことだ。
自分にしか関心がないとは、自分が他人から、立派だと思われる、美しいと思わる、憧れを持たれる・・・逆に言えば(こっちの意味が強いのだが)、馬鹿にされない、醜いと思われない、無視されないということに、執着を持っていることだ。
つまり、傷付き易いなんてのは、大人になっていない、幼い人間なのだ。
そんな人間は、世間でやっていけない。
世間は厳しいし、そこは、弱肉強食のルールが支配し、弱い者は虐げられ利用されて捨てられるところなのだ。
心が弱い者は、是が非でも、心を逞しく鍛え、自己を確立し、揺るがない不動心を持たなければならない。
不動心さえあれば、どこでだってやっていける。
ニートの中でも、単に怠け心ではなく、人の中に入っていくことが不安で、仕事に就くのが嫌だという人は多いと思う。
そんな者は、やっぱり心が弱いのだ。
では、どうやれば、心が強くなるのだろう?
自己をしっかりと確立し、さらに、不動心を得られるのだろう。
座禅や瞑想なんかやったって、何の意味もない。
心の弱い人の特徴に母親依存があるが、ほとんどの場合、母親の子供への執着が最悪の障害だ。
とはいえ、ドワンゴの川上会長のようにマザコンといいつつ立派な人もいるが、そういった人は、母親の方が、良い距離を保っていてくれたのである。
つまり、ある程度の年齢(小学校に入る頃)になれば、母親は、徐々に子供を放置するようにしていたはずなのだ。
ところが、中学生や高校生になっても、母親がべったりとくっついていた人は、心が弱く、傷付き易い、クヨクヨし易い人間になっている。
一番良いのは、彼氏、彼女を作ることだ。
しかし、心が弱い者は、相手にとって負担になるので、ほぼうまくいかず、捨てられる。
実をいうと、女の子でも心が弱い者は、少々美人でも、相手になるのは疲れるものである。
ましてや、男がそうであれば、女の方は「あたし、アンタのママじゃない」と言わざるをえないだろう。
だが、そんな失敗(相手に捨てられること)を何回か繰り返せば、心が強くなる。
それが難しいなら、以前も書いたが、ファンタジー(お伽噺)を持つことだ。
以前挙げた例では、小学生の女の子が、死んだら月に行って幸せになるというファンタジーを持っていた。
自分に合ったファンタジーを持ち、それに深く親しみ、一体化すれば、そんな人は強い。
浄土系仏教で、「南無阿弥陀仏」の念仏を称えれば、仏に救ってもらえるという信仰も、1つのファンタジーだ。
ファンタジーは、意識の奥深くに定着すれば、事実と変わらず、それが人を支える。
ただし、意識の浅いところ、つまり、自我と強く結びついたファンタジーは、妄想になり、困った人間になる。
狂信者とは、そのような者だ。
あるクリスチャンの青年がセールスの仕事をしたのだが、セールスに出ていた青年がオフィスに帰ってきて、上司が「今日はどうだった?」と尋ねると、青年は、「今日は心が落ち着きませんでしたので、教会で1日、お祈りをしていました」と平気で言う。
この青年のファンタジーが悪いのではなく、ファンタジーが自我と強く結合しているので、変な人間になっているのだ。
ある意味、聖書に書かれていることを、そのままに受け取るというのは、ファンタジーが浅いのである。
イエスが、死んだ12歳の少女に、「タリタ、クミ(アラム語で、「娘よ起きなさい」という意味)」と言うと、少女が起き上がって歩いたというのは、内なるエネルギーを引き出して活動しなさいという意味だ。
象徴としての少女は、神話の少女神、たとえば、アルテミス、ヘカテー、ペルセポーネになったコレーなどのような、エネルギーに満ちた存在なのである。
そんなエネルギーは人間の内に潜在するのに、それが閉じ込められてしまっている状態を、死んだ少女で表していたのである。
イエスのあの話を、表面的に捉えるだけでなく、心に深く作用させることで、エネルギーが引き出せるのである。
あのお話をよく読んで、「タリタ、クミ」と心で称えると、ファンタジーが無意識の中に沈み、強くなれるだろう。
これが神話の良い使い方である。
マリアの処女懐妊も、やはり象徴的な意味であると思う。
ともかく、神話を読むことは、良いことであるだけでなく、素晴らしいことだ。
神話のない国が滅びるというのは、そういう意味だ。
神話がなければ、良いファンタジーを持てず、その国の人は弱くなるからである。
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そんな性格を繊細だとか、デリケートだなどと勘違いしてはならない。
まして、それが知的であるという訳ではない。
そんな人間は、心が弱いというだけのことである。
心の土台がしっかりしていない・・・つまり、自己が確立されていないので、すぐに揺らいでグラグラするのである。
心が弱い人間の特徴は、自分にしか関心がないことだ。
自分にしか関心がないとは、自分が他人から、立派だと思われる、美しいと思わる、憧れを持たれる・・・逆に言えば(こっちの意味が強いのだが)、馬鹿にされない、醜いと思われない、無視されないということに、執着を持っていることだ。
つまり、傷付き易いなんてのは、大人になっていない、幼い人間なのだ。
そんな人間は、世間でやっていけない。
世間は厳しいし、そこは、弱肉強食のルールが支配し、弱い者は虐げられ利用されて捨てられるところなのだ。
心が弱い者は、是が非でも、心を逞しく鍛え、自己を確立し、揺るがない不動心を持たなければならない。
不動心さえあれば、どこでだってやっていける。
ニートの中でも、単に怠け心ではなく、人の中に入っていくことが不安で、仕事に就くのが嫌だという人は多いと思う。
そんな者は、やっぱり心が弱いのだ。
では、どうやれば、心が強くなるのだろう?
自己をしっかりと確立し、さらに、不動心を得られるのだろう。
座禅や瞑想なんかやったって、何の意味もない。
心の弱い人の特徴に母親依存があるが、ほとんどの場合、母親の子供への執着が最悪の障害だ。
とはいえ、ドワンゴの川上会長のようにマザコンといいつつ立派な人もいるが、そういった人は、母親の方が、良い距離を保っていてくれたのである。
つまり、ある程度の年齢(小学校に入る頃)になれば、母親は、徐々に子供を放置するようにしていたはずなのだ。
ところが、中学生や高校生になっても、母親がべったりとくっついていた人は、心が弱く、傷付き易い、クヨクヨし易い人間になっている。
一番良いのは、彼氏、彼女を作ることだ。
しかし、心が弱い者は、相手にとって負担になるので、ほぼうまくいかず、捨てられる。
実をいうと、女の子でも心が弱い者は、少々美人でも、相手になるのは疲れるものである。
ましてや、男がそうであれば、女の方は「あたし、アンタのママじゃない」と言わざるをえないだろう。
だが、そんな失敗(相手に捨てられること)を何回か繰り返せば、心が強くなる。
それが難しいなら、以前も書いたが、ファンタジー(お伽噺)を持つことだ。
以前挙げた例では、小学生の女の子が、死んだら月に行って幸せになるというファンタジーを持っていた。
自分に合ったファンタジーを持ち、それに深く親しみ、一体化すれば、そんな人は強い。
浄土系仏教で、「南無阿弥陀仏」の念仏を称えれば、仏に救ってもらえるという信仰も、1つのファンタジーだ。
ファンタジーは、意識の奥深くに定着すれば、事実と変わらず、それが人を支える。
ただし、意識の浅いところ、つまり、自我と強く結びついたファンタジーは、妄想になり、困った人間になる。
狂信者とは、そのような者だ。
あるクリスチャンの青年がセールスの仕事をしたのだが、セールスに出ていた青年がオフィスに帰ってきて、上司が「今日はどうだった?」と尋ねると、青年は、「今日は心が落ち着きませんでしたので、教会で1日、お祈りをしていました」と平気で言う。
この青年のファンタジーが悪いのではなく、ファンタジーが自我と強く結合しているので、変な人間になっているのだ。
ある意味、聖書に書かれていることを、そのままに受け取るというのは、ファンタジーが浅いのである。
イエスが、死んだ12歳の少女に、「タリタ、クミ(アラム語で、「娘よ起きなさい」という意味)」と言うと、少女が起き上がって歩いたというのは、内なるエネルギーを引き出して活動しなさいという意味だ。
象徴としての少女は、神話の少女神、たとえば、アルテミス、ヘカテー、ペルセポーネになったコレーなどのような、エネルギーに満ちた存在なのである。
そんなエネルギーは人間の内に潜在するのに、それが閉じ込められてしまっている状態を、死んだ少女で表していたのである。
イエスのあの話を、表面的に捉えるだけでなく、心に深く作用させることで、エネルギーが引き出せるのである。
あのお話をよく読んで、「タリタ、クミ」と心で称えると、ファンタジーが無意識の中に沈み、強くなれるだろう。
これが神話の良い使い方である。
マリアの処女懐妊も、やはり象徴的な意味であると思う。
ともかく、神話を読むことは、良いことであるだけでなく、素晴らしいことだ。
神話のない国が滅びるというのは、そういう意味だ。
神話がなければ、良いファンタジーを持てず、その国の人は弱くなるからである。
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心が優しかったり、強情だったりは生まれ持った気質の違いはあるものの、適当な時期の訓練が不可欠のようです。社会に適合し、より良い社会造りに貢献するための教育が必要不可欠ですね。
>傷付き易いなんてのは、大人になっていない、幼い人間なのだ。
「人は決して大人になれない。子供が齢を取るだけだ。」という言葉がありますが、ミサイルを飛ばすときの助走路と同じで大人社会がそれぞれの子供に合った助走路を提供する必要があるようです。
指導する側の人間が身勝手ワガママで自分さえ良ければ他人のことには目もくれない助走路を提供すれば子供に責任を負わせることは困難ですね。でもしかし、思春期にダメ親から離れて理想的な学習機会が得られるなら間に合う有りがたい猶予があるように思います。
時代がこうも変われば、若い人たちの先行きに期待は持ちにくく、その内に、やはりこうなったかという時がくるように思え、期待と不安にこの小さな胸を膨らませています(笑)。