人間の才能の違いというものは、歴然として存在するかもしれない。
ただ、才能があるかないかは、それほどはっきりとは分からないこともある。
有るには有るが、天才というほどではなかったり、無いと思っていたのに、実はかなり有ったりといろいろである。
アメリカの国務長官だったコンドリーザ・ライスはピアニストを目指していたことがあり、大変な努力もしており、もしかしたら一流楽団のピアニストになれたかもしれない。
つまり、彼女には万人に1人の才能はあったと思う。
しかし、彼女は、億人に1人の天才を見てしまったことから、自分には世界一は不可能と判断し、進路を変える。
今から考えると、彼女は政治家としても億人に1人というほどではなかったが、それでも万人に1人であったと思う。しかし、それが果たして才能によるものであったのかは分からない。

人間の能力にさほどの差はなく、かけた時間だけの問題と言う人もいる。
ある経営者が、自分と重役達の能力の差を(圧倒的な差であることは誰もが認めていた)、「元々の能力に違いはない。野球でいえば、素振りの数の違い。それが俺とお前達では全然違う」と言っているのを聴いたことがあるが、このことに関してはその通りである。
この経営者は、ビル・ゲイツや孫正義さん、あるいは、川上量生さんのような才能はなく、ひょっとしたらごく普通の人間かもしれない。
だとしたら、誰でも「素振りの回数」で、この経営者程度にはなれるのかもしれない。

イチローが天才だとはよく言われるが、彼は他のどの選手よりも努力をしている。
本人は天才と言われるのが嫌らしいが、分かるような気がする。かけた時間が、他の人と全然違うのだからだ。
神道家だった葉室頼昭さんは、形成外科医としても世界屈指で、50歳を過ぎて本格的に始めた神道も、やはりトップクラスだったが、彼は、本当に長時間勉強した。
また、ある時期は、葉室さんは本当に一日中、大祓詞を上げていたらしいが、彼は、医学でも神道でも、普通の人と比べて、「素振りの数」の違いが圧倒的だった。
彼は、努力なしにスイスイやれる天才でなかったし、彼の本を読んでも、彼はごく普通の人のように感じるのである。

私は、プログラマーとして、才能というほどのものはないが、さすがプロと言われる程度の能力はある。
これも、事務員の仕事をしながら、毎日深夜の2時、3時まで訓練したという原因の結果でしかない。
プログラミングをマスターできないとしたら、単に時間をかけていないだけのことだし、プロになれないとしたら、プロになるのに必要な訓練の時間を割いていなかっただけだ。
じゃあ、私が、世界トップクラスのプログラマーほどの「素振りの回数」をこなしたら、そんな者達のようになれるかというと、なんとも言えない。
ただ、私は、それだけの努力はできない。それが天才でないということかもしれない。

天才ということはなくても、「素振りの回数」が十分であれば、それなりのものにはなれるのだろう。
上に挙げた、超大物とは言えないまでも、誰もが成功者と認める経営者や、それよりずっと低いが、私のプログラミングのようにである。
だが、誰もが川上量生さんや猪子寿之さんになれる訳ではないだろう。
しかし、十分な素振りをやれば、全く不可能ということもないのではないかもしれない。
吉本隆明さんが、物書きになりたいなら、10年、毎日欠かさず書けば絶対にモノになると著書に書かれていたが、そうかしれない。
別に吉本さんは、それでゲーテになれると言ったのではなく、「モノになる」、つまり、飯が食える物書きにはなれるといったのだ。
吉本さんは著書で、「引きこもりよ、作家を目指せ」といった雰囲気のことも書かれていたと思う。
般若心経を10万回唱えたという霊能力者がいたが、この回数は普通の人には無理だろう。
しかし、1日10回唱えれば、千日で一万回になり、それだけやれば、やはり普通の人とはかなり違っているだろう。
サッカー選手や画家などというのは、才能がなくてはなれるものではないと思うが、もし十分な時間をかければ、全く駄目ということもない。
ただ、才能がなければ、それだけ時間をかけようという意欲も起こらない。
そして、一般レベルで、一流とか凄いというのは、普通の人がやれる範囲の「素振りの数」を十分にこなせば、十分になれるのだと思う。









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