取り憑かれるというほどではないが、相変わらず、「正義とは何か」という問題を考えている。
だが、つまるところ、「愛とは何か」というのと同じで、答は分からないに違いない。
愛とは神の領域のもので、元々、人間には分からないものだ。
正義もそれと同じかもしれない。
ただ、愛は分からなくても、憎しみは人間の領域のものであるから、憎むのをやめることはできる。
憎しみを捨てたら、少しは愛に近付けるのだと思える。
それと同じで、正義は分からなくても、悪は分かるので、悪いことをしないと決心すれば、正義に近付けるのだろう。
人間に正義は分からない。
だから、モーセの十戒も、9つまでは「こんな悪いことをしてはならない」という言い方になっているのだろうし、唯一、「父母を敬え」だけが、一見、「善いことをしろ」と言っているように思えるが、これも、実際は、「父母を粗末にしてはならない」という、やはり、「悪いことをするな」という意味なのである。
もちろん、現代の我々がモーセの十戒を掲げるのは無理があるかもしれないが、要するに、悪いことをしなければ良い。
Googleのモットーが「悪いことをするな」であるが、Googleだって、何が悪かなんて、いちいち挙げてはいないのである。
人間は、何が正しいかは分からなくても、何が間違っているかは分かるはずである。
悪いことをしようとすれば、必ず後ろめたい思いが起こる。
だが、それを言い訳をしながらやってしまう者が多いのだ。
だから、ある賢い人はこう言ったのである。
「あなたは何をしてもかまわない。ただし、言い訳だけは許されないのだ」
言い訳だけは死んでもしないと決心すれば、悪を為すのを免れるだろう。
そして、悪を為さなければ限りなく正義に近付いていくのである。
神はこれまで、正義を助けなかったことは、ただの一度もなかった。
これからもそうだ。
従って、実は、我々は言い訳さえやめれば安全なのである。
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だが、つまるところ、「愛とは何か」というのと同じで、答は分からないに違いない。
愛とは神の領域のもので、元々、人間には分からないものだ。
正義もそれと同じかもしれない。
ただ、愛は分からなくても、憎しみは人間の領域のものであるから、憎むのをやめることはできる。
憎しみを捨てたら、少しは愛に近付けるのだと思える。
それと同じで、正義は分からなくても、悪は分かるので、悪いことをしないと決心すれば、正義に近付けるのだろう。
人間に正義は分からない。
だから、モーセの十戒も、9つまでは「こんな悪いことをしてはならない」という言い方になっているのだろうし、唯一、「父母を敬え」だけが、一見、「善いことをしろ」と言っているように思えるが、これも、実際は、「父母を粗末にしてはならない」という、やはり、「悪いことをするな」という意味なのである。
もちろん、現代の我々がモーセの十戒を掲げるのは無理があるかもしれないが、要するに、悪いことをしなければ良い。
Googleのモットーが「悪いことをするな」であるが、Googleだって、何が悪かなんて、いちいち挙げてはいないのである。
人間は、何が正しいかは分からなくても、何が間違っているかは分かるはずである。
悪いことをしようとすれば、必ず後ろめたい思いが起こる。
だが、それを言い訳をしながらやってしまう者が多いのだ。
だから、ある賢い人はこう言ったのである。
「あなたは何をしてもかまわない。ただし、言い訳だけは許されないのだ」
言い訳だけは死んでもしないと決心すれば、悪を為すのを免れるだろう。
そして、悪を為さなければ限りなく正義に近付いていくのである。
神はこれまで、正義を助けなかったことは、ただの一度もなかった。
これからもそうだ。
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ニール・ドナルド・ウォルシュという人の「神との対話」という本に、正義や悪、愛とは何かの答えが書いてありますが、もし読まれたらkayさんの感想が聞いてみたいです。