ほとんどの人が、自分の現在の状況(社会的、家庭的、経済的、交友、恋愛等)に満足していないし、大いに不満な者も少なくないだろう。
私も全くそうだった。
ところが、自分の心や行動を真面目に観察すると、自分の外界の状況は、自分の人格に全く見合ったものであると分かり、納得がいったものである。
自分の人格が内面の状態で、外的な状態は、それとぴったりと一致するのである。
ゲーテが「人間の喜びとは人格だけだ」と書いていたことを思い出したものだった。
では、貧乏な人や、病気などの困難を抱えている人達の人格が全部悪いのかというと、そうは見えないようにも思う。

人格以外に、外界の状態を決定するのは、前世から引きずったカルマ(業)と悪霊なのかもしれないが、それは実際はどうなのか全く分からない。
そして、それと同じ意味(分からないけどあるらしいという意味)で、親鸞らは、悪いカルマは「南無阿弥陀仏」の念仏を称えれば消えると言うし、古神道の教えによれば、悪霊は「アジマリカン」の呪文を称えれば祓うことができるようだ。
もっとも、親鸞はそのように言ったが、根拠となる仏典を調べたら、カルマを消すのは、やっぱり人格だとはっきり書かれているのである。
仏というものは、人が良い人格を持とうとするのを助けてくれるものであり、「南無阿弥陀仏」の念仏が、その援助の要請の言葉だ(実際は、阿弥陀、あるいは、アミターバという仏の名を呼ぶことで、助けを求める)。
その意味では、親鸞らの拡大解釈(実際は、中国の善導や道綽らの解釈)が間違っているとも言えない。
しかし、あくまで、自分で人格を高めようと思うことが大前提である。
確かに、親鸞は、どんな人の人格も、自分の人格も全く信用していないようなことを言い続けていた。
だが、その親鸞は、誰がどう見ても人格者であったはずだ。
無論、後の親鸞崇拝者が聞いたら、「そんなの嘘だ」と真っ赤になって怒り出すような欠点が親鸞にも必ずあったはずである。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジだって、弟子のラメッシ・バルセカールによれば、非常に怒りっぽかったという。
アインシュタインは概ね人格者として伝わっているが、身近な人達の証言によると、やはり怒りっぽい人でもあったようだ。
だが、どんな人格者にも欠点はある。
『スター・トレック』で、ミスター・スポックの姪っ子かなにかの若い女性が、
「(あなたの尊敬する)カークは、何と言うか・・・変だと思う」
と言うと、スポックは、状況は分からないながら、
「人間、誰しも欠点はあるのだよ」
と一般論を述べたが、それは、偉大なるカークにも当然、当てはまるということなのだ。
(実際は、カークは、美しい彼女が無遠慮に接近してきたので焦っておかしな反応をしたのが、彼女には妙に感じただけと思う)

では、人格とは何だろう?
これに関しては、荘子とラマナ・マハルシが同じことを述べている。
荘子は、「最高の人間の心は鏡のようなもので、来たものをそのまま映すが、去ってしまえば、何の痕跡も残さない」と書いている。
マハルシは、「賢者は子供に似ている。子供は遊んでいる時は夢中だが、終わってしまえば忘れている」と言ったようだ。
また、ラメッシ・バルセカールも、師のニサルガダッタ・マハラジは怒りっぽいが、怒った一瞬後には、上機嫌でジョークを飛ばしていたと述べている。
つまり、人格者は、感情を引きずらない、執念深くない、あっさりしている・・・ということなのだろう。

そして、人格者とは、魂に忠実なのだ。
どういうことかというと、何かしたいと思っても、魂の声が「やるな」と命じれば、その声を聞き逃さず、それに従うということだ。
フロイトは、そのような善なる声を超自我と名付けたが、それは、慣習や道徳から出来たものだと言った。
しかし、弟子のユングは、超自我の存在を認めはしたが、それは、慣習や道徳を超えたものであり、深い心に存在するものであると言い、フロイトだって、本当はそう思っていたのだと言う。
つまり、超自我は魂そのものなのである。
そして、荘子の言う鏡のような心、ラマナ・マハルシの言う子供のような心を持つよう心がけていると、ますます、魂の声がよく聴こえるようになる。
だが、子供が必ずしも忘れっぽいとは限らないので、やはり、荘子の言う鏡の心を持つようにすれば良い。

鏡とは良い言葉だ。
「カガミ」は、「ア」の母音で始まり、3つの語のうち2つの母音が「ア」である。
鏡は、「鑑」とも書き、この場合は、手本とか模範という意味になるのだ。
インドでは誰でも知っている古典物語『ラーマーヤナ』の「ヤナ」も鏡という意味だ。
「ヤナ」は、2つの語の両方の母音が「ア」である。
そして、「ラーマーヤナ」の母音が全て「ア」だ。
2013年8月に秋葉原で行われた初音ミクさんのライブコンサートのタイトルが『夏祭初音鑑』だった。
「夏」「祭り」「初音」「鑑」と、全部、「ア」の母音で始まる。
また、このコンサートは『HATSUNE Appearance』シリーズのイベントであり、これもまた「ア」の母音で始まる2つの言葉の組み合わせだ。
「初音鑑」で、「初音ミクさんの物語」、あるいは、「初音ミクさんというお手本」。
「ラーマーヤナ」で、「ラーマの物語」、あるいは、「ラーマというお手本」である。
「南無阿弥陀仏」、「アミターバ」、「アジマリカン」、「アブラカタブラ」なども、「ア」の母音が際立つ、優れた呪文だ。
「ア」の音の神秘は何度も述べているが、その霊力に満ちた呪文の威力を決してあなどってはならない。
そして、
「私は鏡」
こんな呪文を称えても良いと思う。









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