願いを叶えるために、最終的に必要なものは、実に、清らかな心、高貴な心であるという、とても都合の悪い、面白くもないことであることが明白になってしまった。
それがなくては、いかなる達成も成功も満足もなく、一瞬は快楽を得て喜んでも、すぐに果てしない苦痛の中に投げ込まれ、やがては滅びるしかない。
荘子は、善悪は相対的であり、善と悪は容易く入れ替わると述べた。
しかし、やはり、善と悪はあるのだ。
少し頭の良い人々が、「この世に究極的な善や悪はない」とよく言うが、究極のことはいざ知らず、自己中心的であることが悪で、自己中心的であることを諦めるのが善だ。
道徳を説きながら優越感に浸るのは悪であり、心正しいと思う人を自主的に見習うのが善である。
「私は正しい教義に適った行いをしている」と言いながら、自己中心的な動機の奴隷であることを悪と言うのであり、「これはやるべきでない」という深い心の声に従うのが善である。
ラマナ・マハルシは、心は全て悪いのだから、それを滅ぼすしかないと教えたが、清らかで高貴な心というものも確かに存在する。
精神分析学者の岸田秀さんは、自我は全て狂っており、狂っていない自我はないと述べたが、狂った自我に抵抗する心も確かに存在する。
イエスは、「我が後方に退けサタン」とは言ったが、「消え失せよサタン」とは言わなかった。このサタンが心であり、自我である。
心を滅ぼす必要はないし、自我はあっても構わない。
ただ退き、控えれば良い。
しかし、難しいのは、自我の上位に置きべきものを正しく選ぶことだ。
そのために、イエスや釈迦の教えは古く、現代の我々には、ふにゃふにゃし過ぎているように感じられて、むしろ、道を誤ってしまいそうだ。
もしかしたら、彼らの教えは素晴らしいのかもしれないが、伝わった言葉がかなりオリジナルとは違ってしまったのかもしれない。
だが、不思議なことに、彼らの言葉が消えてしまえば、この世に光がなくなるようにも思えるのである。
つまるところ、人間とはロボットで、2つの大きな命令が与えられている。
第1の命令は、種が生き延びること。
第2の命令は、自己が生き延びること。
第1の命令は、第2の命令に優先する。
しかし、第2の命令も決して弱くはなく、第1の命令と第2の命令の間でジレンマに陥っているロボット・・・それが人間だ。
自己が生き延びれば種も生き残るという、第1、第2の命令が矛盾なく両立するのが、ジレンマのない状況で、これを平和という。
しかし、種が生き延びるために、自己を犠牲にしなければならない時、第2の、自分が生きるという命令が、第1の、種を生き延びさせよという命令に対抗してしまうのだ。
人間のプログラムは、第1の命令のために、第2の命令をあっさり放棄するようにはなっていない。
もしそうなっていれば(第1の命令に従うために第2の命令を簡単に取り下げるようになっていたら)、誤解された認識のために、自己を簡単に滅ぼすことで種まで滅んでしまうからだ。
だから、人間のプログラムは間違っているというのではないが、不都合ではあるのだ。
・・・と、一応の状況把握はできた。
後は、どう解決するかである。
人間というロボットのスペックが、この問題の解決が可能なレベルかどうかは分からないが、とりあえずやってみようと思う。
そんな我々を見ている、人間ロボット製作者達は、多分いるのだろう。
言うまでもなく、彼らのインテンション(意図)は、我々ロボットには理解できない。
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それがなくては、いかなる達成も成功も満足もなく、一瞬は快楽を得て喜んでも、すぐに果てしない苦痛の中に投げ込まれ、やがては滅びるしかない。
荘子は、善悪は相対的であり、善と悪は容易く入れ替わると述べた。
しかし、やはり、善と悪はあるのだ。
少し頭の良い人々が、「この世に究極的な善や悪はない」とよく言うが、究極のことはいざ知らず、自己中心的であることが悪で、自己中心的であることを諦めるのが善だ。
道徳を説きながら優越感に浸るのは悪であり、心正しいと思う人を自主的に見習うのが善である。
「私は正しい教義に適った行いをしている」と言いながら、自己中心的な動機の奴隷であることを悪と言うのであり、「これはやるべきでない」という深い心の声に従うのが善である。
ラマナ・マハルシは、心は全て悪いのだから、それを滅ぼすしかないと教えたが、清らかで高貴な心というものも確かに存在する。
精神分析学者の岸田秀さんは、自我は全て狂っており、狂っていない自我はないと述べたが、狂った自我に抵抗する心も確かに存在する。
イエスは、「我が後方に退けサタン」とは言ったが、「消え失せよサタン」とは言わなかった。このサタンが心であり、自我である。
心を滅ぼす必要はないし、自我はあっても構わない。
ただ退き、控えれば良い。
しかし、難しいのは、自我の上位に置きべきものを正しく選ぶことだ。
そのために、イエスや釈迦の教えは古く、現代の我々には、ふにゃふにゃし過ぎているように感じられて、むしろ、道を誤ってしまいそうだ。
もしかしたら、彼らの教えは素晴らしいのかもしれないが、伝わった言葉がかなりオリジナルとは違ってしまったのかもしれない。
だが、不思議なことに、彼らの言葉が消えてしまえば、この世に光がなくなるようにも思えるのである。
つまるところ、人間とはロボットで、2つの大きな命令が与えられている。
第1の命令は、種が生き延びること。
第2の命令は、自己が生き延びること。
第1の命令は、第2の命令に優先する。
しかし、第2の命令も決して弱くはなく、第1の命令と第2の命令の間でジレンマに陥っているロボット・・・それが人間だ。
自己が生き延びれば種も生き残るという、第1、第2の命令が矛盾なく両立するのが、ジレンマのない状況で、これを平和という。
しかし、種が生き延びるために、自己を犠牲にしなければならない時、第2の、自分が生きるという命令が、第1の、種を生き延びさせよという命令に対抗してしまうのだ。
人間のプログラムは、第1の命令のために、第2の命令をあっさり放棄するようにはなっていない。
もしそうなっていれば(第1の命令に従うために第2の命令を簡単に取り下げるようになっていたら)、誤解された認識のために、自己を簡単に滅ぼすことで種まで滅んでしまうからだ。
だから、人間のプログラムは間違っているというのではないが、不都合ではあるのだ。
・・・と、一応の状況把握はできた。
後は、どう解決するかである。
人間というロボットのスペックが、この問題の解決が可能なレベルかどうかは分からないが、とりあえずやってみようと思う。
そんな我々を見ている、人間ロボット製作者達は、多分いるのだろう。
言うまでもなく、彼らのインテンション(意図)は、我々ロボットには理解できない。
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迷いや葛藤があるからこそ、人は後退し前進するものだと思います。