願いを叶えるための最後の、そして、最大の難関が、「汝の敵を愛せよ」である。
せっかくゴール目前まで来ても、ほとんどの者がここでつまづいてしまうのだ。
古神道の術を得る秘法でも、厳しい修行に耐え抜いた行者を待つ最後の試練で、ほぼ全員がそれまでの努力をフイにする。
その試練とは、精霊の幻術により、完全に自分の好みのタイプの女が誘惑してくるというのだから無理もない。
このように、大きな望みの実現には、最後のところで、人間の最大の弱点を突く罠が待ち構えているものだ。
なぜ、そんなことになっているのだろう?
アインシュタインが、「神は老獪である。だが、悪意はないのだ」と言った通り、神様に悪意があるのではなく、むしろ、最大の慈悲であるのかもしれない。
なぜなら、自分を無にできない者に過分なものを与えると、百パーセント間違いなく自滅するからだ。
(上に挙げた古神道の秘術など、誰も持つ必要はない。つまり、精霊を支配する神は慈悲深いのである)
では、どうすれば良いのか?
いきなり答を述べると、「愛さなくて良いから憎むな」、「好きにならなくて良いから嫌うな」だ。
もちろん、はっきりとは分からないが、神様もそれ以上は要求されないはずだ。
なぜ、イエスがあのような言い方(汝の敵を愛せよ)をしたのかは見当がついているし、それをさっき一度書いてみたが、ややこしいので消した。
だが、こう言えば良いと思う。
アイルランドの詩人W.B.イェイツが言ったらしいが、「愛は神の領域であり、人に愛することはできない。だが、憎むのを止めることはできる。なぜなら、憎しみは人の領域だからだ」という通りだと思う。
つまり、そもそもが、我々は、敵を愛するどころか、味方も本当は愛してなどいないのだろう。
だが、それが人間である。
全ての人を愛さなければ、大きな願いは叶わない。
誰かを憎んだり、嫌悪していれば、それが願いを叶える力に急ブレーキをかける。
だが、我々が、憎むこと、嫌うことを止めれば、内なる神の愛を止めることはないのだ。
しかし、憎しみや嫌悪を捨てることは自分でやらなければならない。
政治家を口汚く非難したり、犯罪者を「死刑にしろ」と罵ることを続けていると、憎しみや嫌悪する性質がどんどん強くなる。
実際、罵倒や糾弾なんかでは何の役にも立たないばかりか、寄ってたかってそんなことをすれば、むしろ悪い状況になるだけだ。
その上、自分の願いを叶えることもできなくなってしまうのだ。
なんて残念なことだろうと、そんなことをしている者達が気の毒でならない。
また、政治の議会で、誰か(例えば不適切発言をした大臣等)を猛烈に批判・非難するのを見て喜ぶと、やはり、願いを叶えることができない性質を恐ろしいほど持つことになってしまうのだ。
無論、理性的な批判が必要なことはあるかもしれないが、そんな時は、責める方は苦しそうな顔をするものである。
そして、愚かな行為を批判しても、それをした人自体は責めるべきではない。
なぜなら、他人を責めるような値打ちなんて、誰にもないのだから。
歩きながらタバコを吸う者は馬鹿であるのだろうが、その行為自体は非難すべきであっても、愚かな行為をする者自体は憐れむべきだ。
言っておくが、この憐れむとは見下げるという意味ではない。
誰かを見下げるということは、自分も同じレベルかそれ以下であることをはっきり示すことに他ならない。
自分に愚かな行為を止(と)める権限があるのでない限り、また、余程の状況でない限り、見過ごして耐える以外にない。
(権限があるのに、それをしないなら職務怠慢であるが)
憎むこと、嫌悪することをやめれば願いは叶う。
そして、それは、難しくはあっても、誰でもできることである。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
せっかくゴール目前まで来ても、ほとんどの者がここでつまづいてしまうのだ。
古神道の術を得る秘法でも、厳しい修行に耐え抜いた行者を待つ最後の試練で、ほぼ全員がそれまでの努力をフイにする。
その試練とは、精霊の幻術により、完全に自分の好みのタイプの女が誘惑してくるというのだから無理もない。
このように、大きな望みの実現には、最後のところで、人間の最大の弱点を突く罠が待ち構えているものだ。
なぜ、そんなことになっているのだろう?
アインシュタインが、「神は老獪である。だが、悪意はないのだ」と言った通り、神様に悪意があるのではなく、むしろ、最大の慈悲であるのかもしれない。
なぜなら、自分を無にできない者に過分なものを与えると、百パーセント間違いなく自滅するからだ。
(上に挙げた古神道の秘術など、誰も持つ必要はない。つまり、精霊を支配する神は慈悲深いのである)
では、どうすれば良いのか?
いきなり答を述べると、「愛さなくて良いから憎むな」、「好きにならなくて良いから嫌うな」だ。
もちろん、はっきりとは分からないが、神様もそれ以上は要求されないはずだ。
なぜ、イエスがあのような言い方(汝の敵を愛せよ)をしたのかは見当がついているし、それをさっき一度書いてみたが、ややこしいので消した。
だが、こう言えば良いと思う。
アイルランドの詩人W.B.イェイツが言ったらしいが、「愛は神の領域であり、人に愛することはできない。だが、憎むのを止めることはできる。なぜなら、憎しみは人の領域だからだ」という通りだと思う。
つまり、そもそもが、我々は、敵を愛するどころか、味方も本当は愛してなどいないのだろう。
だが、それが人間である。
全ての人を愛さなければ、大きな願いは叶わない。
誰かを憎んだり、嫌悪していれば、それが願いを叶える力に急ブレーキをかける。
だが、我々が、憎むこと、嫌うことを止めれば、内なる神の愛を止めることはないのだ。
しかし、憎しみや嫌悪を捨てることは自分でやらなければならない。
政治家を口汚く非難したり、犯罪者を「死刑にしろ」と罵ることを続けていると、憎しみや嫌悪する性質がどんどん強くなる。
実際、罵倒や糾弾なんかでは何の役にも立たないばかりか、寄ってたかってそんなことをすれば、むしろ悪い状況になるだけだ。
その上、自分の願いを叶えることもできなくなってしまうのだ。
なんて残念なことだろうと、そんなことをしている者達が気の毒でならない。
また、政治の議会で、誰か(例えば不適切発言をした大臣等)を猛烈に批判・非難するのを見て喜ぶと、やはり、願いを叶えることができない性質を恐ろしいほど持つことになってしまうのだ。
無論、理性的な批判が必要なことはあるかもしれないが、そんな時は、責める方は苦しそうな顔をするものである。
そして、愚かな行為を批判しても、それをした人自体は責めるべきではない。
なぜなら、他人を責めるような値打ちなんて、誰にもないのだから。
歩きながらタバコを吸う者は馬鹿であるのだろうが、その行為自体は非難すべきであっても、愚かな行為をする者自体は憐れむべきだ。
言っておくが、この憐れむとは見下げるという意味ではない。
誰かを見下げるということは、自分も同じレベルかそれ以下であることをはっきり示すことに他ならない。
自分に愚かな行為を止(と)める権限があるのでない限り、また、余程の状況でない限り、見過ごして耐える以外にない。
(権限があるのに、それをしないなら職務怠慢であるが)
憎むこと、嫌悪することをやめれば願いは叶う。
そして、それは、難しくはあっても、誰でもできることである。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
| 人気ランキング参加中です |
|

多分、あれだけは次元が違うんですよね。
反原発派の言ってることは概ね正論だとは思いますが、
どんな政治家や指導者がやっても対処は難しいと思うので、やっぱり、とやかく言わないのが無難だと思います。