年始には、今でも大勢の人々が神社や仏閣に初詣に出かける。
普段、信心深いとは言い難くとも、全く神や仏を信じていないという人は、あまりいないであろうから、別におかしなことではない。
それに、たとえ年に一度でも、そのような場所にお参りすることにも意義がある。
その意義とは、「自分より高い存在があると認めることを、曲りなりにも行動で示す」ことである。
この「自分より高い存在がある」と認める度合いも色々であろうが、たとえ僅かであろうと、それを思い出すのは良いことである。

念仏を称えたり、アーメンと言ったり、神棚に手を合わせるという行為も全て、「自分より高い何か」の存在を意識することである。
この「自分より高い何か」を、神と呼ぼうが、仏と呼ぼうが構わないが、その存在を感じることは尊いことである。
なぜなら、そのような何かは確実に存在するからだ。
誰かがアインシュタインに「神が本当にいるとお考えですか?」と尋ねたら、アインシュタインは、「世界を少しでも見たら、神がいないなどと、どうして考えることができましょう」と答えたらしいが、言われてみれば当たり前のことだと私も思う。

利己的なことを言うようで恐縮だが、自分より上位の存在を感じれば感じるほど、運が良くなるということは別に不思議なことではない。
なぜなら、上位の存在を認めるということは、その存在の高い力も認め、受け入れることになるからである。
おそらくだが、上位の存在は、人間に良いものを与えようとしているのであるが、人の方でそれを受け入れなければ、福の押し付けも出来ないのだと思う。
だから、「南無阿弥陀仏」と称えれば、相手が人間の考えるような意味での仏ではないとしても、これ幸いとばかりに恵みを与えるのである。

そして、よく考えれば、年に一度のお参りに行くよりは、普段から、何らかの形で、この「自分より高い何か」を感じる方が良いのである。
それが、念仏を称えたり、ロザリオの祈りをしたり、神棚に手を合わせることであり、他にも様々な形があるだろう。
例えば、仏典や聖書を読むことにも同じ意味がある。
また、童話を読むことも、堂々、それに匹敵すると思われるのだ。
ところで、祈りや念仏をする際には、イエスが言ったように、隠れてすることが望ましい。
なぜなら、せっかく、そのようなことをしても、それが、教会や神社等のしきたりに合わせるためとか、誰かに言われたからとか、あるいは、自分が信心深いことを見せるためという気持ちがあっては、肝心の「上位の存在」を感じることがおろそかになってしまうかもしれないからだ。
だから、誰もいないところで、自分だけの行いとして、念仏やお祈りをすべきなのである。
集団念仏や、合同ミサのようなものは、よほど敬虔な人達が集まっているのでない限り、私はあまり薦めず、やはり1人で祈るのが良いと思う。

ただ、正直な話が、現代人に、宗教的な意味での神様や仏様を信じることが難しい場合もあるのだと認めることも必要と思う。
キリスト教やユダヤ教がしっかりと定着した地域・・・まして、アメリカのように、あらゆる貨幣に「我々は神を信じる」と書かれている、一神教の教えが強く心に染み付いた国民には、神様はかなり現実的なのであろうが、日本人はそうではない。
だが、真の意味での、自分より上位の存在とは、「本当の自分」「真の自分」なのである。
そして、本当は、自分の内に、無限の存在とつながった(無限の存在と一体と考えて良い)真の自分があることを認めることが、最も良いのである。
一休さんのような昔の、しかも仏教のお坊様でさえ、「阿弥陀仏は西にいない。南にいる」と言い、その「南」とは、「皆身(みなみ)」と洒落たのであり、心の中に仏がいるのだと鋭く見抜いていたのである。
「真の私とは何か?」と問うことが、より高度な念仏であり、祈りであると私は思う。
これは、ラマナ・マハルシが言ったらしい「私は誰か?」、あるいは、「私とは何か?」と問うより、混乱が少ないはずだ。
破廉恥なことを言うように思われるかもしれないが、これを毎日やれば、運は百倍良くなると思う。









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