自信に満ち、誇り高かった人が、しばらくしたら、卑屈で惨めったらしく変わってしまっている。
ツルゲーネフの『初恋』は、主人公の少年が慕っていた、太陽のごとく輝いていた年上の女性は、少年の父親を好きになって愚かな女に堕落した。
ビートルズの『ヘルプ!』では、「僕」は、子供の頃は自信があって、何でもできたが、今はすっかり駄目になって自信をなくしているという。
そして、そんなこと(自信をなくすこと)は多いだけでなく、自信のある者は、やがては皆、そうなるのだ。
逆に稀なことかもしれないが、以前は自信がなくて、誰かに尻尾を振ってばかりだった者が、今は力に満ち溢れて怖いものなしだ。
自信のあった子供も、現実を知った時にそれを失う。
人間は、身体が弱く、暑さ、寒さ、空腹、疲労に耐えられないのだ。
そして、人間は心が弱く、自我を揺さぶられると、恐怖が大きくなって、抗うことができない。
信仰、信念のある人間は、一見強いが、限度を超えた現実の困難が襲って来ると、たちまちうろたえ、どうにもならなくなる。
フロイトによれば、自我は幻想の上に立脚しているのだから、人間である限り「誰もが皆」弱いのだという。
これは面白い論である。
人間以外の動物は、根本的には恐怖を感じない。恐怖を感じているように見えても、それは単に、生命の危機に対処しようとしているだけだ。
人間と動物の違いは、次のようである。
動物は本能が完全なので、本能のプログラム通りに動ける。
一方、人間は、フロイトによれば、本能が壊れているので、それを補完するために、自我という幻想を作ったが、自我は自然に立脚しておらず、本能のように、単純で完璧なプログラムではなく、不完全なので、揺らいでばかりで安定しない。よって、自信が持てない。
『新世紀エヴァンゲリオン』で「人類補完計画」というものがあったが、これも、不完全な自我同士が補い合い、完全な1つの自我にしてしまおうというものだと考えれば、なかなか理に適っている。
しかし、人間は1つに融合するのが難しい。
エヴァンゲリオンの作者も、その方法までは思いつかなかったかもしれないが、着想は優れている。
綾波レイも、「絆」を求めて傷付いたのは、シンジと1つになる方法が分からなかったからだろう。
そして、今のところ、人間同士が融合する有力な方法が「共感」だということが分かっている。
それは何を見れば分かるかというと、色々あるのだが、初音ミクを見ていると分かることなのである。
初音ミクを、「オタクが好きなアニメキャラ」と見下している者には分からないことである。
だが、日本の力強い、新しいリーダー達は、本当に、皆、初音ミクが好きなのである。
それは不思議なことではなく、当然のことだと思う。
もちろん、初音ミクの表面的なものを見ている限りでは重要なことは分からないかもしれないが、直感を頼りに「何が起きているか」を感じれば、共感の力に速やかに触れることができるだろう。
岡本太郎が言ったように、感性というのは一瞬であり、一瞬にエネルギーを集めて火花を散らすと、感性が湧き上がり、全てが分かる。
初音ミク以外にも共感を感じるものもあるだろう。
例えば、インドの『ラーマーヤナ』は、単純な子供向けと思える物語である分、邪念なくその中に入り込めば、大きな1つの心に溶け込むことができる。
しかし、いずれにしても、想像力が必要だ。
神話や芸術や初音ミクは想像力を高めてくれる。
想像力は、適切なものを見つけると、自我を共感に導き、大きなものの中に溶け込ませてくれる。
個我であれば怖くて怯(ひる)むことも、大きな心と一体化していれば、あるいは、それに近ければ、何も恐れない、あるいは、さして恐れない。
これが原理である。
このような言い方で分かるだろうか?
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ツルゲーネフの『初恋』は、主人公の少年が慕っていた、太陽のごとく輝いていた年上の女性は、少年の父親を好きになって愚かな女に堕落した。
ビートルズの『ヘルプ!』では、「僕」は、子供の頃は自信があって、何でもできたが、今はすっかり駄目になって自信をなくしているという。
そして、そんなこと(自信をなくすこと)は多いだけでなく、自信のある者は、やがては皆、そうなるのだ。
逆に稀なことかもしれないが、以前は自信がなくて、誰かに尻尾を振ってばかりだった者が、今は力に満ち溢れて怖いものなしだ。
自信のあった子供も、現実を知った時にそれを失う。
人間は、身体が弱く、暑さ、寒さ、空腹、疲労に耐えられないのだ。
そして、人間は心が弱く、自我を揺さぶられると、恐怖が大きくなって、抗うことができない。
信仰、信念のある人間は、一見強いが、限度を超えた現実の困難が襲って来ると、たちまちうろたえ、どうにもならなくなる。
フロイトによれば、自我は幻想の上に立脚しているのだから、人間である限り「誰もが皆」弱いのだという。
これは面白い論である。
人間以外の動物は、根本的には恐怖を感じない。恐怖を感じているように見えても、それは単に、生命の危機に対処しようとしているだけだ。
人間と動物の違いは、次のようである。
動物は本能が完全なので、本能のプログラム通りに動ける。
一方、人間は、フロイトによれば、本能が壊れているので、それを補完するために、自我という幻想を作ったが、自我は自然に立脚しておらず、本能のように、単純で完璧なプログラムではなく、不完全なので、揺らいでばかりで安定しない。よって、自信が持てない。
『新世紀エヴァンゲリオン』で「人類補完計画」というものがあったが、これも、不完全な自我同士が補い合い、完全な1つの自我にしてしまおうというものだと考えれば、なかなか理に適っている。
しかし、人間は1つに融合するのが難しい。
エヴァンゲリオンの作者も、その方法までは思いつかなかったかもしれないが、着想は優れている。
綾波レイも、「絆」を求めて傷付いたのは、シンジと1つになる方法が分からなかったからだろう。
そして、今のところ、人間同士が融合する有力な方法が「共感」だということが分かっている。
それは何を見れば分かるかというと、色々あるのだが、初音ミクを見ていると分かることなのである。
初音ミクを、「オタクが好きなアニメキャラ」と見下している者には分からないことである。
だが、日本の力強い、新しいリーダー達は、本当に、皆、初音ミクが好きなのである。
それは不思議なことではなく、当然のことだと思う。
もちろん、初音ミクの表面的なものを見ている限りでは重要なことは分からないかもしれないが、直感を頼りに「何が起きているか」を感じれば、共感の力に速やかに触れることができるだろう。
岡本太郎が言ったように、感性というのは一瞬であり、一瞬にエネルギーを集めて火花を散らすと、感性が湧き上がり、全てが分かる。
初音ミク以外にも共感を感じるものもあるだろう。
例えば、インドの『ラーマーヤナ』は、単純な子供向けと思える物語である分、邪念なくその中に入り込めば、大きな1つの心に溶け込むことができる。
しかし、いずれにしても、想像力が必要だ。
神話や芸術や初音ミクは想像力を高めてくれる。
想像力は、適切なものを見つけると、自我を共感に導き、大きなものの中に溶け込ませてくれる。
個我であれば怖くて怯(ひる)むことも、大きな心と一体化していれば、あるいは、それに近ければ、何も恐れない、あるいは、さして恐れない。
これが原理である。
このような言い方で分かるだろうか?
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「甘ったれた現代人は」「平和ボケの日本人が」などと書くと、そういうお前は何なんだと発言者に向けて誹謗中傷や反論メールがきそうですが、「甘ったれた我々は」「平和ボケの我々は」と書くだけで「ともに困難を乗り越えよう」という勇気が湧いてくるように思います。逆に「最近の若者は・・・」や「年寄りは」のような分断する言い方は、エネルギーを引き出すのではなく、吸い取るような言葉のような気がします。そして最近のkayさんのブログでは、言葉の使い方を意識して変えているように思えます。