世間とは、「なめられたら終わり」というところである。
なめるとは、「かるく見なす。甘く見る。みくびる」という意味だ。
「なめられたら終わり」は、特に、地位のある男はそうである。
2002年の大河ドラマ『利家とまつ』で、まつ(松嶋菜々子)が利家(唐沢寿明)をこころよく思わない出来事があり、公の場で、まつが利家をぞんざいに扱うといったことがあった。
利家は、弱味でもあるのか、まつに何も言えない。
そこで、誰だったか忘れたが、ある大名がまつに、「男は顔をなめられたら終わりなのだ」と警告する。
つまり、「お前がそんなことをして、利家が馬鹿にされるようなことになったらどうなるか頭を冷やして考えろ」ということだ。
妻が夫を立てることは大切である。
しかし、今の世間の妻は、自分の顔を立てることが大事で、夫の顔を潰すことなど、何とも思っていない。
(アブラハム・リンカーンの妻もそうだった)
そもそも、多くの者が、他人の顔を潰すことを何とも思っておらず、自分の顔を立てようと必死だ。
自分の顔さえ立てば良く、上司は部下の顔を平気で潰し、部下も上司の体面に気を使わない。

自分の顔を立ててもらうためには、恐怖で圧力をかけるしかない。
たとえ、親分が子分にたっぷり報酬を出し、可愛がってやっているつもりでも、怖いと思われていなければ、子分は本気で親分の体面を大切にしたりはしない。
恐怖を与えることなく、黙っていても顔を立ててもらえるような人徳のある人間は滅多にいないだろう。

ところが、SF映画『スター・トレック』で、バルカン星人のミスター・スポックが素晴らしいことを言っている。
「バルカン星人に面子などないのです」
面子とは、体面、面目のことで、まさに、上で述べた「顔」のことだ。
つまり、バルカン星人は、顔をなめられたり、顔を潰されたり、顔が立たないといったことがあっても気にしないということだ。
そして、スポックは、世間では顔(面子)が大事だとされていることをよくよく知っているからこそ、わざわざこう言ったのだ。

面子にこだわらない人間は、他人の面子を潰すことはない。
しかし、無理に立てることもない。
自分の利益に執着していないからだ。

そして、面子などどうでも良いと思っているなら、真の強者である。
神や仏の面子を潰したからって、神仏は怒ってその者を罰したりしない。
神仏は最高の強者だからだ。
ただ、そんな者(神仏の面子を潰す者)は弱いので自滅するだけだ。
また、強者は神仏の面子をあえて立てることもない。
神仏に媚びない強さがあるからだ。
そんな者は、自分でそう宣言しなくても、自らが神や仏なのである。
そのような人間として思い当たるのは、時代劇小説、『木枯し紋次郎』のヒーロー紋次郎くらいだ。
紋次郎は、どれほど侮辱されても、それが当たり前だと思っている。
悔しくない訳でもないのかもしれないが、完全に耐えることができる。
ある時、年下のチンピラが、紋次郎を「紋次郎」と呼び捨てにし、
「どうだ?俺に紋次郎って言われたら気に障るだろう?」
と紋次郎に訊くが、紋次郎は、「いや」とどうでも良いといった返事をした。
本当に、紋次郎にはどうでも良いことなのだ。
そんな人間を、神仏も敬うのだと思う。

面子を持たない人間が一番強い。
これは間違いが無い。
しかし、面子を捨てることは難しい。
捨てようと思って捨てられるものではない。
では、どうすれば良いかというと、
「真の強者に面子などない」
「面子を持たなくなったら無敵である」
ということを、ただ覚えていれば良いのだ。
これもまた、『老子』22章の「曲則全」(曲がれば自由自在だ)である。
実に、「曲則全」は最強の呪文である。
これを忘れなければ、絶対に危うからずである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ