大正14年(1925年)に、小酒井不木が『歴史的探偵小説の興味』で、過去の時代を舞台に書いた探偵小説がなぜ面白いかについて、面白いことを書いていた。
それは、大体、
「科学が発達した現代と違い、その時代の探偵は原始的な手段で事件を解決しなければならない。その中で、知恵と工夫で見事に事件を解決するところが嬉しい」
というものである。
小酒井は推理作家、SF作家であると共に、一級の医学者で、ニューヨーク、パリ、ロンドンなどに長期滞在していたので見聞も広いが、当時の世界を、人類が科学技術を極める少し手前の状態のように感じていたところが、まず面白いと思う。
他にも、昭和20年代に書かれたある本に、「現代は、科学技術が発達して何もかも便利になったが、その分、人間性が失われた」と述べられていた。
また、岡本太郎が1950年頃に書いた『今日の芸術』では、「現代の情報社会は世界を狭いものにした」とか、「レジャー産業が発達し、人々は受け身の楽しみに慣れてしまって創造性がない」などといったことを述べている。

つまり、いつの時代も、人間は、現代の世の中が、「過去とは違う進歩した文明社会」と思うものなのである。
それは、産業革命以前ですらそうなのかもしれない。
2400年前の『荘子』にも、井戸から桶を何度も引き上げる老人を見て、若い者が、今は滑車を使った便利なものがあって、そんなにがんばらなくて良いと言うと、その老人は「文明にかぶれると人間は駄目になる」と若者を戒める話がある。

ところが、物理学者のスティーヴン・ホーキングは、「未来の人から見れば、現代人も、世界が亀の背中の上にあると信じているような昔の人(あるいは時代遅れな迷信家)も、全く差はないだろう」と述べていたが、さすがホーキングである。

ところで、最初の小酒井の話に戻るが、「過去の不自由な時代に知恵と工夫で問題を解決するのが愉快」というのも、確かにその通りだと思う。
しかし、科学技術という、物質的な面では多少の進歩はあるにしても、実は、その分、後の時代の人間の方が衰えた部分もあるということが、上の荘子や岡本太郎の話から感じられるかもしれない。
それは、直観、想像力といったものである。
いや、小酒井の「科学が足りない分、知恵と工夫でがんばった」という言葉から、逆に考えると、現代人は科学の恩恵を得た分、知恵と創意工夫がなくなったと考えることもできるのである。

あるいは、もしかしたら、イエス・キリストが起こした数々の奇跡は、その時代(西暦30年頃)も奇跡であったが、それより数百年以上前には普通のことだったかもしれない。
荘子は、物質の背後にある実相を認識していた古代人は偉大な知恵を持っていたに違いないと言う。
アリストテレス以降、人類は全てを物質的に考えるようになり、いつしか人類は、見えるものだけを信じるようになったことは確かだろう。
それで、サン・テグジュペリが『星の王子様』で、「本当に大切なものは目に見えない」などと、わざわざ言わなければならなくなり、そんなあたり前のことを「名言だ」などと有り難がる始末なのである。

我々は、ネットとSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で世界中の人と結び付く時代になったと思っているかもしれないが、過去の人は、直観やあるいは「肌で」世界を、もっと鋭く、もっと深く認識していたのかもしれない。
まるでサルのマスターベーションのごとく、スマートフォンをずっとせわしなく指でこすりまわしていても、薄っぺらな交流しかできず、テクノロジや情報に対して受け身でいるだけなら、明らかに退化する一方であることは一目瞭然である。
ネットとSNSの本当に良い、画期的なところは、これまでは一部の人間の特権であった、情報の受発信・・・特に、発信を誰でもできるようになったことである。
そのメリットを活用するには、共感力と創造力が必要である。
これらがなければ、進歩はかえってその人に危ういものになるのである。









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