アインシュタインという人は、「神はサイコロを振らない」という考え方にとりつかれていた。
全知全能たる神は、サイコロがどんな目を出すか初めから分かるし、また、どんな目でも思うがままに出せるのだから、わざわざ振る必要はないということだろう。
サイコロを英語でダイスと言うこともあるが、ダイスには6面ダイスだけでなく、4面、8面、10面、12面、20面のものもあるし、珍しいが60面、120面などというものもある。
だが、人間の知らないことは、神様のダイスには無限の面があるということだ。
つまり、無限の可能性が神の性質ということになる。
人間は、若い時は無限の可能性を持つと言われる。
つまり、若ければ若いほど神に近いと言えるかもしれない。
しかし、現代の社会では、子供のうちに可能性を限定され、神であることをやめさせられる。
勉強にも、可能性を広げる勉強と、可能性を殺す勉強がある。
優れた文学や評論を題材としても、「こう考えるのが正解だ」と押し付けられるなら、可能性を殺す勉強だ。
至高の文学が、子供を歪めることに利用されているのだ。
解釈を保留していたら、試験で点が取れないので、児童、生徒、学生は、無理矢理、特定の考え方を押し付けられる。
極端に言えば、「小川は(解答)流れる」という問題では、解答=「サラサラ」でなければならず、「神秘的に」「自然に」「美しく」「昨日と同じように」「昨日とは違ったように」「優しく」「意地悪に」・・・などの無限の解答は不正解である。
私は最近、大学受験の国語の問題の解き方を、特級の国語の先生に教わったが、それは、ノミを狭い箱に閉じ込めて、ノミに飛ぶことを忘れさせるような勉強だった。
ある国では、「小川は将軍様の意向通りに流れる」のかもしれず、それが唯一の正解と教えられるのだが、日本も大して変わらない。
学生達は、こんな下らない、神を冒涜する、犯罪的な、奴隷思考を叩き込むような・・・それこそ、無限の言い方ができるが、とどのつまり、神から遠ざかるための勉強をさせられているのである。
神のことを、至高の実在、無限者、天帝・・・あるいは、「ありてあるもの」、存在、彼、それ、等と言う。
だが、ある意味、神とは無限の可能性だ。
10歳で神から遠ざけられてしまった子供もいれば、70歳でも神のごとくある人もいる。
あなたは、「私は無限の可能性だ」と念仏のように称えても仕方がない。
だが、自分が無限の可能性であることを覚えていなければならない。
それが、自分が若いことを覚えていることだ。
今日と同じ明日を頑なに守ろうとするのではなく、神のダイスに身を委ねることだ。
映画『タイタニック』で、ジャックが、
「どんなカードが配られても、それも人生」
と言うと、富豪達は、彼の強さに感動した。
彼は、起こることを起こるままに認める、古(いにしえ)の賢者のような強さを持っていたのだ。
だが、同時に神は万能である。
神のサイコロである、宇宙的な偶然を受け入れる時、人は神に限りなく近付く。
これが秘法である。
そして、神に不可能はない。
全ては偶然であり必然であると言われる訳はこの通りである。
「放恣(勝手きまま)」は、貴族の高貴な特性であると共に、与太郎の愚かな癖でもある。
人間は、「高貴な放恣」を身につけるかどうかで決まるのである。
それは、全てをなりゆきに任せながら、どんな表情をしているかの問題である。
どんな運命も愛し微笑んでいるなら、不思議なことに、無敵で、決して傷付くことはない。
分からなくていいから、全能者、至高者の真似をすることだ。
何が起きても、静かに笑っているのだ。
すると、神であることに慣れてくる。
そうなれば、できないことはなくなるのである。
リフレーン(繰り返し)になるが、これが秘法である。
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全知全能たる神は、サイコロがどんな目を出すか初めから分かるし、また、どんな目でも思うがままに出せるのだから、わざわざ振る必要はないということだろう。
サイコロを英語でダイスと言うこともあるが、ダイスには6面ダイスだけでなく、4面、8面、10面、12面、20面のものもあるし、珍しいが60面、120面などというものもある。
だが、人間の知らないことは、神様のダイスには無限の面があるということだ。
つまり、無限の可能性が神の性質ということになる。
人間は、若い時は無限の可能性を持つと言われる。
つまり、若ければ若いほど神に近いと言えるかもしれない。
しかし、現代の社会では、子供のうちに可能性を限定され、神であることをやめさせられる。
勉強にも、可能性を広げる勉強と、可能性を殺す勉強がある。
優れた文学や評論を題材としても、「こう考えるのが正解だ」と押し付けられるなら、可能性を殺す勉強だ。
至高の文学が、子供を歪めることに利用されているのだ。
解釈を保留していたら、試験で点が取れないので、児童、生徒、学生は、無理矢理、特定の考え方を押し付けられる。
極端に言えば、「小川は(解答)流れる」という問題では、解答=「サラサラ」でなければならず、「神秘的に」「自然に」「美しく」「昨日と同じように」「昨日とは違ったように」「優しく」「意地悪に」・・・などの無限の解答は不正解である。
私は最近、大学受験の国語の問題の解き方を、特級の国語の先生に教わったが、それは、ノミを狭い箱に閉じ込めて、ノミに飛ぶことを忘れさせるような勉強だった。
ある国では、「小川は将軍様の意向通りに流れる」のかもしれず、それが唯一の正解と教えられるのだが、日本も大して変わらない。
学生達は、こんな下らない、神を冒涜する、犯罪的な、奴隷思考を叩き込むような・・・それこそ、無限の言い方ができるが、とどのつまり、神から遠ざかるための勉強をさせられているのである。
神のことを、至高の実在、無限者、天帝・・・あるいは、「ありてあるもの」、存在、彼、それ、等と言う。
だが、ある意味、神とは無限の可能性だ。
10歳で神から遠ざけられてしまった子供もいれば、70歳でも神のごとくある人もいる。
あなたは、「私は無限の可能性だ」と念仏のように称えても仕方がない。
だが、自分が無限の可能性であることを覚えていなければならない。
それが、自分が若いことを覚えていることだ。
今日と同じ明日を頑なに守ろうとするのではなく、神のダイスに身を委ねることだ。
映画『タイタニック』で、ジャックが、
「どんなカードが配られても、それも人生」
と言うと、富豪達は、彼の強さに感動した。
彼は、起こることを起こるままに認める、古(いにしえ)の賢者のような強さを持っていたのだ。
だが、同時に神は万能である。
神のサイコロである、宇宙的な偶然を受け入れる時、人は神に限りなく近付く。
これが秘法である。
そして、神に不可能はない。
全ては偶然であり必然であると言われる訳はこの通りである。
「放恣(勝手きまま)」は、貴族の高貴な特性であると共に、与太郎の愚かな癖でもある。
人間は、「高貴な放恣」を身につけるかどうかで決まるのである。
それは、全てをなりゆきに任せながら、どんな表情をしているかの問題である。
どんな運命も愛し微笑んでいるなら、不思議なことに、無敵で、決して傷付くことはない。
分からなくていいから、全能者、至高者の真似をすることだ。
何が起きても、静かに笑っているのだ。
すると、神であることに慣れてくる。
そうなれば、できないことはなくなるのである。
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試験の穴埋め問題の話も、良くネット等で、試験で破天荒な回答をしている例を集めているのを見たことがあります。それは、大抵笑いの対象とされているのではありますが、見ている人たちの反応を読んでいると、その予想を裏切る回答の仕方に、深層部では「あこがれ」や「シンパシー」等を感じているように感じます。表層では嘲笑しつつも。
みんな、そういう自由さに深層ではあこがれているし、答えはひとつではなく大いなる可能性を持っていることをかんじているだと思います。ただ、現実を前にしてそれを破る勇気がないということの裏返しで、それは奴隷である自分を認める瞬間でもあるのでしょう。
無限の可能性は神や仏の特質でもあり、自分がそれであることをわかるためには、まずは自分自身が何が起きても順応して受け入れられるようでないと。
多くの奴隷である人たちは、無限の可能性を認めることは、広大は空間に放り出される感覚から、恐れを感じ、結局奴隷である自分の状態を維持しようとしてしまう。空気を読んだり、奴隷の規則にしたがわないものを嫌悪し避難することで、それを守ろうとする。またずる賢い人たちは奴隷であることに安心感を持たせようと、外界から今日も刺激を送り続ける。いつも電車の中では虚ろな目でスマホでゲームをしている人たちでいっぱいだ。私もかつてそれを作る側にいたのでよく分かる。彼らはずる賢い。
自分がどうすればいいのか少しずつわかってきています。