人間は、静かな雨音を聴くのが好きだ。
あるいは、静かな川の流れの音、木立を吹きぬける静かな風の音もだ。
また、星や月、あるいは、夕陽を見ることも。
これらのものには、共通した特長がある。
1つには、暴風や真昼の太陽の輝きのように、感覚器官に強い刺激を与えないこと。
そして、もう1つは、それらは自分に支配できないことを、ごく自然に認めてしまえることだ。
穏かな雨音を聴きながら、「こんな雨音になれば良いのに」と思ったりはしない。
ただ、あるがままに受け入れるだろう。
ものごとをあるがままに受け入れることを、一言で受容性と呼ぶが、優れた人間の特長とは受容性の高さに他ならない。
起こることを起こるままに許し、放っておける。
そのような人には、鬼神も道を譲り、神々も地に伏して崇めるとさえ、昔から言われている。
強い風や雨、あるいは、暴力に対しては、行動を起こさざるをえないことはある。
だが、その時、心を乱さなければならないという決まりなどはないのだ。
実際、達人というものは、敵の荒々しい攻撃に対し、まるで、それらがそよ風であるように対処する。
子供っぽい言い方をするなら、何が起ころうとへっちゃらだという訳である。
そして、ここが秘法なのであるが、何に対しても平気だという態度でいれば、本当に平気になってしまう。
心を乱れさせず、炎を温かい猫の肌のようなものと思っているなら、火傷を負うこともない。
こういったことが、意識が外界にではなく、内側に向いている者が起こす魔法のようなものである。
雨音や星の光を楽しんでいる時は、実は、心の奥にある、清浄な心を楽しんでいるのである。
その清浄な心を、真我、聖霊、魂など、いろいろに呼ぶが、それは創造の源でもあり、この世界を創り出すものである。
いつもそこに意識を留めておければ・・・たとえ外部のものに激しく対応しているように見えても、意識がそこにあれば、あなたは無敵であり、いかなるものもあなたを害することはできない。
だから、外界の人工的で刺激的なものばかり見て、内側を見なければ、我々は無力になる。
実に無力の原因とは、感覚が外ばかりに向けられていることである。
スマートフォンばかり見ている者が滑稽に見えるのは、彼らがせっかくの能力を捨て続けている愚か者であることが、直感的に分かるからである。
我々は、意識を内に向けることについて、もっと真剣になるべきである。
魔法とは、外界をあるがままに受け入れつつ、意識を内側に向ける技術なのである。
『老子』、『荘子』、『浄土三部経』などは、魔法の書のようなものと思う。
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あるいは、静かな川の流れの音、木立を吹きぬける静かな風の音もだ。
また、星や月、あるいは、夕陽を見ることも。
これらのものには、共通した特長がある。
1つには、暴風や真昼の太陽の輝きのように、感覚器官に強い刺激を与えないこと。
そして、もう1つは、それらは自分に支配できないことを、ごく自然に認めてしまえることだ。
穏かな雨音を聴きながら、「こんな雨音になれば良いのに」と思ったりはしない。
ただ、あるがままに受け入れるだろう。
ものごとをあるがままに受け入れることを、一言で受容性と呼ぶが、優れた人間の特長とは受容性の高さに他ならない。
起こることを起こるままに許し、放っておける。
そのような人には、鬼神も道を譲り、神々も地に伏して崇めるとさえ、昔から言われている。
強い風や雨、あるいは、暴力に対しては、行動を起こさざるをえないことはある。
だが、その時、心を乱さなければならないという決まりなどはないのだ。
実際、達人というものは、敵の荒々しい攻撃に対し、まるで、それらがそよ風であるように対処する。
子供っぽい言い方をするなら、何が起ころうとへっちゃらだという訳である。
そして、ここが秘法なのであるが、何に対しても平気だという態度でいれば、本当に平気になってしまう。
心を乱れさせず、炎を温かい猫の肌のようなものと思っているなら、火傷を負うこともない。
こういったことが、意識が外界にではなく、内側に向いている者が起こす魔法のようなものである。
雨音や星の光を楽しんでいる時は、実は、心の奥にある、清浄な心を楽しんでいるのである。
その清浄な心を、真我、聖霊、魂など、いろいろに呼ぶが、それは創造の源でもあり、この世界を創り出すものである。
いつもそこに意識を留めておければ・・・たとえ外部のものに激しく対応しているように見えても、意識がそこにあれば、あなたは無敵であり、いかなるものもあなたを害することはできない。
だから、外界の人工的で刺激的なものばかり見て、内側を見なければ、我々は無力になる。
実に無力の原因とは、感覚が外ばかりに向けられていることである。
スマートフォンばかり見ている者が滑稽に見えるのは、彼らがせっかくの能力を捨て続けている愚か者であることが、直感的に分かるからである。
我々は、意識を内に向けることについて、もっと真剣になるべきである。
魔法とは、外界をあるがままに受け入れつつ、意識を内側に向ける技術なのである。
『老子』、『荘子』、『浄土三部経』などは、魔法の書のようなものと思う。
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外部で起こることに心乱され、火傷する日々です。
意識を内側に留めているつもりでいても、それは違っていて、ただ内的に「外部」のことを思い煩っているだけです。
静かな雨音、川の流れの音、木立を吹きぬける静かな風の音、星や月の光を感じる時のように、ものごとをあるがままに受け入れることができれば、楽になれるのですね。
今朝も気づかせていただきました。
ありがとうございます。